オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.091
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チロル解放戦争とバイエルンの真相
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アンドレアス・ホーファーの記念碑
アンドレアスホーファーの記念碑
(インスブルック)

オーストリアのチロル地方には、「チロル人に非ずばオーストリア人に非ず」といった過激なことばがあります。なにしろナポレオン戦争のときには、ハプスブルク家がフランスに降参したあとも郷土と皇室のためにしつこく敵と戦っていた土地柄ですから。

1805年、チロルはナポレオン1世と講和したバイエルン軍に統治されることとなりました。が、これを不服とするチロルの人々は1809年に蜂起、地元の英雄アンドレアス・ホーファーの率いる農民解放軍がフランスとバイエルンの連合軍に3度勝利して、一時はインスブルックに住民による統治権が誕生するほどでした。もっとも、最後はやっぱり敗北して、チロルは1814年までバイエルン領になってましたけど。

この解放戦争のときアンドレアス・ホーファーが司令部を置いて場所はゴルデナー・アードラー(黄金の鷲亭)という14世紀創業の老舗料理旅籠で、今でも営業を続けていますよ。で、その入り口のあたりには侵略者からチロルを守ろうとしたアンドレアス・ホーファーの記念碑(上の写真)も残っています。

ところで、チロルでは侵略者だのなんだのと不評なバイエルンですが、あちらのほうにもどうやらそれなりの事情があったようです。考えてみれば正義と悪のハッキリした戦争なんてほとんど聞いたことがありませんね。そんなわけで、今日はバイエルン側から見た当時の状況を覗いてみましょう。

まず最初にバイエルンの意図ですが、意外にも侵略をするどころか、「とにかく祖国を防衛しなくては!」というのが実情でした。1800年頃のバイエルンは王国ではなく、わりと小規模の公国でした。そして、フランス、プロイセン、オーストリアが20万人ぐらいの常備軍をもっていたのに対し、バイエルンの兵力はわずか1万6千人。どう考えても戦争を仕掛けて領土を拡大しようなんて企みは無理です。

こうした事情からバイエルン公国は、どこかの大国と同盟することで生き残りを図ろうとしました。で、初めのうちはオーストリアと組んでいましたが、1800年に領内侵攻をしてきたフランス軍とホーエンリンデンで戦ってオーストリア軍共々大敗。そのあとバイエルン公マックス・ヨーゼフの重臣であるモンジュラ(父親は元々伊仏系のサヴォイ家出身でバイエルン軍の将校)は戦況を冷静に分析してフランス軍有利と判断し、「同盟相手を変えましょう」と提案しました。

しかしマックス・ヨーゼフ公は、「オーストリアに逆らってお仕置きされるのは怖いし、かといってフランスを信じたら騙し打ちに遭うかも」と悩みます。それで結局のところは、「プロセインの後ろ盾を得ながらフランスとオーストリアには中立でいければいいのに」という結論に。ところがプロイセンはバイエルンの中立を保証してくれません。しかもオーストリアとフランスからは、自軍に付くようにと再三の催促が重なります。実に参ったことになりました。

そこでマックス・ヨーゼフ公は1805年8月25日、オーストリアにナイショでフランスと同盟する条約(ボーゲンハウゼン条約)に締結しました。一方、その秘密条約を知らないオーストリアは9月6日に武装交渉団を送り込んで、バイエルンを無理矢理自陣に引き入れようとします。で、これに弱ったマックス・ヨーゼフは翌々日家族を連れてミュンヘンを抜け出し、ヴュルツブルクに逃げました。これ、けっこうトホホですね。

さて、マックス・ヨーゼフが逃げた翌々日の1805年9月10日、オーストリア軍はバイエルン公国の南部を占領します。が、これはナポレオンにとって対オーストリア開戦のいい口実となり、なんだかヤブヘビに。そしてフランス軍は9月25日にライン川を超えてドイツの地に侵入、9月27日にはマックス・ヨーゼフのいるヴュルツブルクに到着します。マックス・ヨーゼフはこの時点でもまだ判断をためらっていましたが、翌28日にフランスと結んだ同盟の義務履行を承認。こうしてバイエルン軍はフランス軍とともに南下し、10月22日にミュンヘンを取り返しました。さらにフランス軍はウルムでオーストリア軍を降服させ、ドイツの地からその勢力を一掃。続いてアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシアの連合軍も破り、逆にオーストリアに侵入してきました。

こうした戦いのあと、フランス主導の領土再編によってバイエルンは飛び地だったライン地方などの領地を手放す代わりに、オーストリアからチロル(現イタリア領の南チロルを含む)を割譲されます。さらに同国は公国から王国に昇格(1806年1月1日)となりました。でも、これってよく考えると、バイエルンが野心をもってチロルを占領したというよりも、フランスが自国とオーストリアの国境を遠くする策の一環としてバイエルンの国境を引き直したという感じですね。で、それがたまたま「領土を減らさずに飛び地をなくす」というバイエルンの願いに一致したというのが実態のようです。

以上のように、バイエルンは別に悪気ばかりでチロルを領土にしたわけではありません。一方のチロルは、「13世紀に旧チロル伯の男系の血縁が絶えたとき、広い自治権付きという条件で平和的にハプスブルク家のルドルフ1世のご領地となった歴史」に対する郷土の誇りで意地になったところもあるようです。

そうそう、チロルの意地は今でも健在ですよ。農民軍のリーダーだったアンドレアス・ホーファーは「自由の戦士」と崇められ、インスブルックには彼の像も立っています。また、当時の出来事をモチーフにした郷土愛的なゲームカードの復刻版も作られています。

しかし、戦争というのは被害の記憶ばかり鮮明に残って、加害のほうは忘れ去られるものなんですね。あのときオーストリア軍がバイエルン南部を占領しなければ、チロルが一時的にバイエルン領となることだってなかったかも知れません。まあ、せめてあとから振り返るときだけでも、歴史は両方の立場から見つめておきたいものです。


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