オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.099
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主のいないチロルの壮大な廟霊
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マクシミリアン1世
マクシミリアン1世

インスブルックの王宮に隣接する宮廷教会には、立派な大理石の棺とおびただしい数のブロンズ像が並ぶ壮大な霊廟があります。これは1490年から1519年までこの町を帝都にしていたハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世(1459-1519)が生前から自分のために計画し、のちに彼の孫であるフェルディナント1世が完成させていったものだといいます。

マクシミリアン1世は中世最後の騎士とも呼ばれる立派な人物でしたが、なぜか葬式にだけはやたらとこだわりを見せるという変わった面ももっていました。晩年はいつ最期の時がきてもいいようにと手回しよく自分の棺を作らせ、これを5年にもわたってあちこち出かけるたびに持ち歩いていたそうですよ。

宮廷教会内でマクシミリアン1世の棺を取り囲むブロンズ像は全部で28体あります。そのうちマクシミリアン1世の亡くなる1519年までに作られたのは12体でした。その面々は下の表のとおりです。大半は皇帝に由縁の人たちですが、アーサー王とテオドール王だけはまったく他所のおじさんたちですね。この2人の像は、騎士道精神に憧れて作ったみたいですよ。

制作年 人物の名 メモ
1510年 ポルトガル王フェルディナンド マクシミリアン1世の母の祖父の兄弟
1513年 アーサー王 6世紀のブリテン族の王(イギリス)
1516年 テオドリック王 5世紀後半から6世紀初めの東ゴート王
1516年 チロル女伯エリザベート ハプスブルク家の全家系の祖母
1516年 エルンスト鉄公 マクシミリアン1世の祖父
1516年 ジンビウス フォン マゾービエン マクシミリアン1世の祖母
1516年 フィリップ美公 マクシミリアン1世の息子
1516年 クニグンデ マクシミリアン1世の妹
1517年 マリー・ド・ブルゴーニュ マクシミリアン1世の死別した先妻
1517年 ルドルフ1世 ハプスブルク皇室の始祖
1518年 アルプレヒト4世 ルドルフ1世の父
1519年 オーストリア公レオポルト3世 ルドルフ建設公の兄弟

皇帝の後妻だったマリア・ビアンカ・スフォルツァや父フリードリヒ3世などを含むあと16体のブロンズ像は、マクシミリアン1世の死後約30年をかけて作られました。また、以上の28体の像については、下記のサイトで1つづつ画像を見ることができます。ページの右側の1番から28番がブロンズ像で、29番はマクシミリアン1世の棺です。

●http://business.chello.at/hofkirche/english/hkplan.htm (2005年9月、リンク切れ)

ところで、せっかくここまで気合いの入った霊廟を企画していたにもかかわらず、実をいうとマクシミリアン1世はここに眠っていません。それは、この皇帝が死を目前にした1519年の帰郷のとき、インスブルックの人々から追い返されてしまったためです。滞在拒否の理由は皇帝がこの町から借金をして未返済ということでした。なにしろあちこちで反乱や戦乱があって戦費が絶えなかったうえ、マクシミリアン1世は金銭管理が杜撰で、しかも部下には気前よく褒美をあげたりしてましたから。

皇帝の借金は24,000グルデンだったといいます。今の価値でいえば約1億2,000万円ですね。1兆円単位の借金をしていたダイエーやカネボウに比べたら可愛いものという気もますが。しかしこの借金を盾にインスブルックの宿の主たちはマクシミリアン1世の滞在を断固拒否。そのため皇帝は病身で宿もなく野宿するハメに陥り、そのあとリンツの町を目指して東進する途中、ヴェルスという町であえなく息絶えました。もっとも、一説によるとこの皇帝の死因はメロンの食べすぎとも言われています。ホントかどうかは知りませんけど。

マクシミリアン1世亡骸は遺言によって、結局のところ皇帝の母親が眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋められることになりました。また、心臓は最愛の妻だったマリー・ド・ブルゴーニュの眠る今のベルギーに埋葬されています。まあ、これはこれで悪くはないと思いますけど。ちなみに、インスブルックの宮廷教会にあるブロンズ像たちはすっかり黒い色をしているので、皇帝の「黒い仲間たち(Die schwarzen Mander)」というあまり優雅じゃないあだ名をもっています。なんか盗賊の一味みたいな呼び名ですね。こんな廟霊、入らなくてよかったかも知れませんよ。

マクシミリアン1世は気さくで明るく公正で、民衆に輪の中にもよく入ってゆく皇帝でした。ただ、先代のダメダメ皇帝だったフリードリヒ3世たちから受け継いだ負の遺産と戦乱の時代のロクでもない波で損をしたところがありますね。それと、24,000グルデンの借金だって、忠実な家臣であるルクセンブルク家がお家再建中でなかったらポンと出してもらえたはずです。1400年代にハプスブルク家のアルプレヒト5世から騙されて身包み剥ぎ取られたルクセンブルク家がお家復興を果たしたのは17世紀初め頃で、マクシミリアン1世の借金退治には100年近くも間に合いませんでした。

こうして見ると、マクシミリアン1世にはこれといった落ち度がありませんね。彼の100年以上も前に目先の欲で動いたアルプレヒト5世のツケのほうがよっぽど大きいかと思います。先代がアホだと子孫が苦労するというよい例でしょう。一方、真当な人間だったマクシミリアン1世の子孫たちは、おかげさまでその後「日の沈まない国」へ一直線となりました。また、インスブルックの人々も今では自分たちの町を「皇帝マクシミリアン1世に愛された町」として誇りにしています。私がオーストリア留学中にインスブルックの人から聞いたお話しには、「狩のときチロルの山の絶壁で遭難しかけたマクシミリアン1世が、神のご加護で奇蹟の生還をした」という伝説がありましたよ。これ、あとになってからモーツァルトを讃え始めたザルツブルクみたいでしらじらしいところもありますが、「マクシミリアン1世を愛さなかった町」として恥を晒し続けるのに比べたら100倍もマシですね。

◆参考文献
1. 中世最期の騎士 - マクシミリアン1世伝: 第6章 心は最愛の妻と慈母のもとへ
江村洋著、中欧公論社
2. Die schwarzen Mander in der Hofkirche von Innsbruck
http://www.lehrerweb.at/ms/ms_arb/gs/schwarzemander/schwarzemander.htm
3. Hofkirche
http://www.hofkirche.at/
4. Knaurs Kulturfuehrer in Farbe - Tirol: Innsbruck
Marianne Mehling著、 Droemer Knaur


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