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コロレド大司教はホントに悪者?
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コロッレド大司教
コロレド大司教

ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレド-マンスフェルト(1732-1812、在位1777-1803)といえば、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の天敵としてすっかり悪名高くなっていますね。しかし、いろいろ調べてみると、それはどうも言いすぎのようです。

まず最も誤解の元となっているのは、「モーツァルトが召使い同様の扱いを受けた」という一文です。コロレドの館でモーツァルトが受けた俸給は年俸でした。本当に下層階級並みの扱いなら日払いだったはずですよ。ここはやっぱり「召使い」じゃなく「正規の職員」だったというべきでしょうね。

モーツァルトがコロレド大司教の館に就職したのは1771年8月のことでした。もちろん本人はオペラ劇場のない田舎のザルツブルクで一生を過ごす気など毛頭なく、この就職は腰掛けです。父親のレオポルトもチャンスがあれば息子が都会の宮廷に召抱えられることを強く望んでいました。

さて、1774年になるとモーツァルトはバイルン選帝侯からから謝肉祭シーズンに向けにオペラの作曲を受注、「偽の女庭師」の作曲にかかりました。そして翌年ミュンヘンでの公演は大成功。たぶんこれで自信を強めたことでしょう。しかし、いつまでもザルツブルクの田舎大司教の館の職員では明るい未来が開けません。そこで1777年7月、父レオポルトの勧めもあってモーツァルトはコロレドにに退職を依願。同年9月に母のアンナ・マリアとザルツブルクを発ってミュンヘン、アウグスブルク、マンハイム、パリへと旅に出ました。で、道中では御前演奏にこぎつけることもありましたが、もうらうのはいつも金時計。現金や雇用契約の話しは得られませんでした。そして1778年7月3日、旅の疲れによりアンナ・マリアはパリで病没。モーツァルトは落胆して故郷に帰ってきました。

当面ザルツブルクにいるしかないとなると、マトモな就職先は大司教の館しかありません。息子の失業だけは避けたいとするレオポルトはさっそく「高貴にして慈悲深き大司教閣下」で始まる復職依頼を起草しました。そうそう、この手紙については日本語で書かれた本に「みじめに平伏してお願いしてますよ」と出ていますが、これは言いすぎ。今のオーストリアで普通にかく手紙だって、日本じゃ「拝啓」で済ませるところを大袈裟に「Sehr geehrter Herr XX(この上なく誉れ高きXX様)」で始まりますから。

コロレドはこの虫のいいお願いに、「年俸は前の3倍の450グルデン(1761年にハイドンがエスターハージー家から受けていた年俸と同じくらい)でモーツァルトを再雇用」という太っ腹ぶりを示しました。なんだかそんなに意地悪ってわけじゃなさそうですよ。こうしてモーツァルトは1779年1月15日から晴れて正社員に復帰しました。

しかしモーツァルト自身は親の顔を立てるために再就職しただけで、嫌いなコロレドの館勤めはイヤイヤながらといったところでした。そうした中、1880年11月15日に新しいバイエルン選帝侯カール・テオドールからオペラの作曲依頼が来て彼は父とミュンヘンへ。嬉しかったでしょうね。で、ここで「イドメネオ」の公演をしたあとも、モーツァルト父子はザルツブルクよりもチャンスのありそうなミュンヘンに居残っていました。

するとウィーンに滞在中だったコロレドから仕事で召集のお声が届きます。皇帝のいる都会ならよりよい就職へのチャンスもあるということで、翌年3月にモーツァルトは喜んでウィーンに行きました。が、ここで彼とコロレドの間に溝が深まります。せっかくモーツァルトがウィーン貴族から招待を受けても、コロレドがそれを許可しなかったのです。おかげでモーツァルトは皇帝の御前演奏の機会を失うなどしてカリカリきました。とはいえ、コロレドも意地悪三昧でモーツァルトの行動を制限していたわけではなさそうです。モーツァルトが例の御前演奏を逃した日は、コロレド自身のところで演奏会があったのですから。

が、これで爆発したモーツァルトは1781年5月9日、ついにコロレドと正面切って大喧嘩し、「もう辞めてやる!」と啖呵を切りました。コロレドもコロレドで頭に血が上り「このルンペン野郎の能無しめ!」と放言。悪いことにこれがまたのちの世に「モーツァルトを目の仇にしたコロレド」というイメージを強めたようですね。しかしこれは単なる売りことばに買いことばだったと思います。というのも、モーツァルトがコロレドの悪口を書いた手紙は残っているのに、コロレドがモーツァルトの悪口を書いた手紙は残ってないといいますから。

この出来事で父レオポルトが肝を潰したのはいうまでもありません。息子に翻意を促すとともに、たぶん平謝りでコロレドに退職取り消しを懇願したことでしょう。そして正気を取り戻したコロレドは1781年6月8日、仲介役のアルコ伯爵をモーツァルトのところに送りました。けっこういいところがあるじゃないですか。

ところがモーツァルトは大司教との和解を頑として拒否。これでアルコ伯爵は怒ってしまい、思わずモーツァルトを足蹴りにしました。そういえば「モーツァルトは1781年にコロレドの召使いから足蹴りにされた」と書いた本がありますけど、その召使いってアルコ伯爵のことなんでしょうか?いくらなんでも尾ひれのつけすぎでしょう。それとも、大司教の館の召使は伯爵とか侯爵ばっかりだったんでしょうか?

ついでながら、モーツァルトがいかにコロレドと対立しようとも、そのとばっちりが父レオポルトに及ぶことはありませんでした。普通の大司教なら親子共々首にするところでしょう。このへんを見ても、コロレド大司教はそんなに悪い人という感じがしません。

では、いったいどこに問題があったんでしょう?私は、どうやら4つのポイントがあったようだと思っています。

1つめは、イタリア芸術が最高としていた当時の時代的な風潮です。モーツァルトはイタリア人じゃありませんから、元々ハンディーがありました。コロレドもイアリア芸術の支持者でしたから、モーツァルトには意地悪をしたというよりも、あまり関心を払っていなかったというころでしょう。

2つめは、社会に芸術家という概念がまだ希薄だったことです。当時の音楽家は正確にいうと作曲業者といったところでした。「コロレドはモーツァルトの芸術家としての才能を認識できなかったからずっと雇用人扱いした」とされていますが、「芸術家」という概念がなければそりゃ当然の成り行きともいえるでしょう。コロレドだけじゃなく、結局ウィーンやパリの人々だって、モーツァルトを天才として厚遇することはできなかったんですから。

3つめは、コロレドが官僚的な人だったということです。彼がモーツァルトの行動を制限したのは、職務の規律に厳しすぎたためだと思います。この点では、少しぐらい「まあいっか」という大らかなところもほしかったですね。

4つめはモーツァルトがどうも血の気のありそうな人だったことです。コロレド相手だけじゃなく、1777年の旅先でも各地の有力者とすぐケンカになるし、家に宛てた手紙では観客を低レベルとこき下ろすことばを何度も書いていますから。コロレドの館で5週間の無断欠勤というのもワガママのしすぎでしょう。この性格が災いしたところは少なからずあると思いますよ。もっとも、そうした自由奔放なところがなかったら、モーツァルトらしさも失われていたでしょうけど。

以上のことから、モーツァルト対コロレドの対立はどちらが悪者というわけではないでしょう。時代の風潮に起因するものが2つ、コロレドの問題が1つ、モーツァルトの問題も1つで、お互いに1勝1敗1引分けのイーブンです。


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