オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.094
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聖ディスマス
強盗だった聖ディスマス

オーストリア南部・シュタイアーマルク州のグラーツには、カルヴァリオ山聖堂という隠れた名所があります。もちろん隠れているぐらいですから、そのへんの観光ガイドには載ってませんけど。で、ここの礼拝堂に祭られているのはマリア様なのですが、実はそこに1694年から1803年まで、強盗聖人が祭られていたんですよ。

その聖人の名はディスマスといいます。聖書によると、キリストが磔刑になったとき事のついでに処刑された強盗野郎の片割れなのだとか。で、このときディスマスの相棒はキリストに向かって「あんた、ホントにキリスト様だったらここで自分と俺たちの命を救って見せろよ!」と生意気なことを放言。これをたしなめてディスマスは「これこれ、ひどいことを言うもんじゃない!俺たちは殺人や強盗をしたから死刑もしょうがないけど、この方は別に悪いことなんてしてないのだから」と殊勝なことを言いました。するとキリストはディスマスに「よっしゃ、あんたは天国行き!」と太っ腹なことを言いました。そして、へらず口を叩いた相棒の強盗は地獄に落ち、ディスマスは天国に行けたと聖書(「マタイによる福音書」の第27章第38節)は語っています。

さて、悪事に悪事を重ねたにもかかわらずあっさり天国行きとなったところはすごいということで、その後ディスマスは聖人の列に加えられることとなりました。盗賊だのなんだのという極悪な連中はさぞかし喜んだことでしょうね。もちろん、彼らがディスマスを強盗の守護聖人として崇め立てたのはいうまでもありません。

ところがある日、強盗をしなくてもラクに暮らせる貴族やインテリの間にもディスマスが人気が急上昇するという、前代未聞の事態が起こりました。その震源地は現在のスロヴェニアにあたるクライン公国のリュブリアーナでした。1688年ここの貴族と上級官吏たちがエリートクラブみたいな宗教的団体を結成し、こともあろうかその守護役として聖ディスマスを持ち上げたのです。

ディスマスに関心を寄せる風潮は一応ヨーロッパのあちこちにも広まったといいます。しかし、とりわけその影響を強く受けたのは今のオーストリア南部にあたるシュタイアーマルク公国(今はシュタイアーマルク州)とケルンテン公国(今はケルンテン州)でした。イエズス会の関係者が特に熱心だったといいます。でも、両公国とも別に盗賊の巣窟というわけじゃなかんたんですけどね。盗賊騎士を先祖にもつ人が多かったんでしょうか?

ただ、いくらなんでも元強盗を崇拝するのは少しやりすぎか、という気持ちもあったようで、オーストリアの人々はディスマスの伝説にあれこれとインチキ話しをつけていますよ。たとえば、「実をいうとその昔、ディスマスは自分の隠れ家の洞窟で幼いキリストをかくまったことがある」なんて具合に。なにしろ聖書はディスマスについて死刑になったことと天国に行ったこと以外何も書いてませんから、やろうと思えば尾ひれはつけ放題でした。

また、教会は教会で「あまり安易にゴロツキが救いを得られるなんて思われたらまずいぞ!」と考えていました。そこで、「ディスマスが天国行きになったのはキリストの影を被った偶然による恩寵だ」とか、「実はマリア様の影の威力によるアクシデントみたいなものだった」などと変なこじつけをいろいろ考えています。

その後クライン、ケルンテン、シュタイアーマルクの貴族や官吏たちはこの強盗聖人に対する信心を他のどこよりも頑固に(100年以上も!)守り続け、しまいには自分の子供にディスマスという名をつけて喜ぶ人までいたそうですよ。ただ、祈祷をするときには「いったいディスマスの何の褒め讃えたらいいのか?」と困ってしまう一場面もあり、結局破れかぶれになって「天に在します強盗様、あれだけ罪業を重ねながらセーフだったあなた様こそ真の大天使なり!」というアホなお祈りをするハメになっていたのだとか。

では、話しをまとめましょう。私の第六感では、イエズス会というのがこの出来事の黒幕じゃないかという気がします。この教団はアジアの植民地化に最も熱心な一派でしたから、ある意味で強盗と根本的なところはそれほど変わりません。だからこそ、ディスマス祭り上げの風潮を作ることによって、植民地の分捕りが正当化できる雰囲気を醸し出そうとしたのはないかと。

また、オーストリアやスロヴェニアの人々がいちばん最後まで無邪気にこの強盗聖人を讃え続けられたのは、彼らがアジアに植民地をもたなかったからだと思います。もし自分の国の軍隊がインドなんかを侵略する場面を目にしていたなら、強盗聖人に対する熱も早々に冷めていたことでしょう。

それから、グラーツのカルヴァリオ山聖堂の礼拝堂の主がディスマスからマリア様に入れ替わったのは1803年なんですが、これもまた微妙な年代ですね。ナポレオン戦争でオーストリアがフランス軍から盗賊行為を受けた時代と一致してますよ。このときは最後にグラーツ市民の心のシンボルだった時計台まで没収されています。で、当時のグラーツ市民は郷土の誇りを捨ててなるものかという思いが募り、戦争でカネなしだったにもかかわらず大金を払ってこれを取り返したといいます。が、さすがにこのときばかりは「やっぱり強盗などけしからぬ!」と思ったんでしょうね。


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