オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.085
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不思議の国リヒテンシュタイン・後編
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リヒテンシュタイン家の紋章
リヒテンシュタイン家の紋章

今日は小さな小さなリヒテンシュタイン侯国が、2つの世界大戦の時代をどうやって生き抜いたかというお話しです。

まず、第1次世界大戦。1914年6月28日にサライェヴォでハプスブルク家のフランツ・フェルディナント皇太子が暗殺され、7月28日にはオーストリアがセルビアに戦線布告。当初皇帝フランツ・ヨーゼフはセルビアのお仕置きだけにして済ませるつもりだったのですが、本人の意図に反して戦火はめちゃくちゃ拡大してしまいました。

当時、小国のリヒテンシュタインは外交をオーストリアにアウトソーシングしていました。また、元首のヨハネス2世はリヒテンシュタイン侯爵であると同時に、オーストリア貴族としての地位も保持していました。さらに、この国は経済の面でもオーストリアと関税同盟を結んでいました。だから連合国側にはイヤでも目の仇にされます。しかし軍隊は1868年に廃止していますから、戦争に加担することはあり得ません。そこでリヒテンシュタインは9月25日、ウィーンにあるアメリカ大使館を通じて「中立」を宣言しました。

そのあとリヒテンシュタインは国内にいたフランス人やイギリス人の尼さんたちを保護、オーストリア軍の捕虜になった連合国兵士が脱走で自国を通過するのも許可、さらに国内にいたオーストリア軍の脱走兵や戦争反対者の引渡し拒否といった行動もとりました。

これに対してイギリスは、自国内にいたリヒテンシュタイン人を収容所にぶち込むという下品な返礼をしました。まあ、アヘン戦争を仕掛け、ボーア戦争を始めた「ゴロツキの国イギリス」と、戦争らしい戦争をしたことのない「紳士の国リヒテンシュタイン」では所詮格が違いますから、良心的な対応を求めるほうが無理なのかも知れませんけど。イギリスは今でもゴロツキの伝統を守ってて、フリーガンなんかががそこらで暴れてますね。トホホ。

フランスも自国内にいたリヒテンシュタインの人々を戦時収容所に叩き込みました。まあ、ブルボン家の王様を処刑したあとしばらくそのへんの汚いおやじが勲章をつけていたことのある「無粋の国フランス」と質素なれど品性のある「エスプリの国リヒテンシュタイン」とでは格が違いますので、仕方ありませんね。ただ、今のフランスの文明度が当時より上がっているところは、せめてもの救いです。

こうしてリヒテンシュタインの中立は完全に無視されました。さらに英仏などの連合国側は、経済封鎖の魔の手をリヒテンシュタインにも伸ばしてきました。その結果食料の輸入ができなくなったリヒテンシュタインは、飢餓寸前の危機に陥ってゆきました。非武装中立というのはこういう試練を受けるんですよ。大変でしょ。

ところがここに、救いの主が現われます。それはスイスでした。いくらなんでも罪のない小国リヒテンシュタインをここまでイギリスやフランスが苛め抜くのはひどい、と可哀想になったのです。でも、スイスだって別に余裕があったわけではありません。厳しい環境の中で、中立を維持するために備蓄していたなけなしの食糧の一部を、わざわざ売ってくれたのです。立派な人たちですね。

スイスから送られてきた小麦粉の代金は全部で55万フランでした。連合国の経済封鎖でビンボーになっていたリヒテンシュタインの人々は、どうやってこれを買ったと思いますか?実は元首のヨハネス2世が、無利息でポンとお金を国民に融資してくれてたんですよ。すごいインフレの時代ですから、無利息の融資というのは事実上くれてやったのも同然です。なんという懐の深さでしょう。

ナポレオン戦争のあともそうでしたが、この侯爵家は、本当にいざというとき思い切りよくお金を使いますね。それと、戦争中の経済疲弊やその後のハイパーインフレ、さらにはチェコの新政府よるボヘミアの広大なご領地の没収といった打撃をモノともせず大富豪であり続けたリヒテンシュタイン家の才能を見ると、モルガンやロックフェラーも凡人に見えてきます。

こうして、スイスの騎士道精神と元首ヨハネス2世の財力により、リヒテンシュタインの人々は命拾いをしました。そして1918年11月、第1次世界大戦はドイツ・オーストリアの同盟国側が敗れて幕を閉じました。で、この戦争は連合国の勝利とされていますが、人類の歴史という観点でいうなら、リヒテンシュタインに自国の尼さんや脱走兵を助けてもらった恩を仇で返した連合国のアホどもは、むしろ「敗者」の列に数えるべきでしょう。第1次世界大戦の本当の勝者は、大国相手に「非武装中立」を貫き通したリヒテンシュタインと、それを助けたスイスの良心です。

この大戦のあと、リヒテンシュタインはオーストリアから離れてスイスに接近することを考えました。しかし、長らく世話になってきたオーストリアとの関税同盟や外交委託の破棄を一方的に行うのは気が引けます。何かいい考えはないものでしょうか?

するとそこにタナボタが起こります。それは、オーストリアの帝政崩壊です。リヒテンシュタイン家が忠誠を尽くしていたのは、オーストリア=ハンガリー帝国という国ではなく、ハプスブルク家という1つの王家でした。そこでリヒテンシュタインは新しいオーストリアの共和国政府に言いました。「ハプスブルク家のみなさんには大変お世話になりました。皇室の方々と結んでいた関税同盟や外交委託が満期となるのは寂しいことですが、今度の共和制がうまくいきますように祈ってますよ。それじゃ、バイバイ!」と丁寧に。「破棄」ではなく、「満期」と言ったところが紳士的ですね。それと、帝政の崩壊でオーストリアの貴族制度も廃止になりましたが、リヒテンシュタイン家の人々は自分たちの小さな国があるおかげで、今での貴族の地位を保持したままです。

その後リヒテンシュタインはスイスと関税同盟および外交の委託を締結しました。また国際連盟にも加盟しようとしたのですが、こちらのほうは「軍隊のない国じゃ軍事的な制裁に参加できないだろう!」と叱られて、入れてもらえませんでした。制裁以外にもやることはあると思うんですけど。国際連盟は石頭ですね。今のアメリカと変わらないじゃないですか。

最後に第2次世界大戦のことをお話ししましょう。このときリヒテンシュタインはスイスと運命共同体を作っていたうえ、耕地面積を以前の2倍にするといった自助努力もしていましたから、第1次世界大戦のときみたいに餓死寸前のリスクはありませんでした。それどころか、人口1万人なのに7千人もの難民を受け入れて、その人たちの救済をするほどの余裕ぶり。難民の中にはかつてリヒテンシュタインを何度も苦しめたフランス人も3千人以上いたといいますが、ギナ后侯によって設立されたリヒテンシュタイン赤十字は過去の恨みなんて気にせず、誰でも助けてあげました。よく「戦争の記憶を風化させてはいけない」という正義の声をいう人や団体がいますけど、なんだかさっさと忘れて前向きに歩むリヒテンシュタインのほうがいいみたいですね。

あと、リヒテンシュタインは軍隊がないうえ、オーストリアとの国境は平地でしたので、もしナチスがここを越えてきたら、5分か10分で占領されるのは明らかでした。ただ、その国境には関税同盟を結んでいるスイスの税官吏がて、もしナチスの兵隊がこの税関を破って中に侵入したら、もちろん怒られます。それどころか、恐るべき武装中立国スイスの強力な民兵を全部敵に回すことにさえなりかねません。そんなわけで、結局ナチスは攻めてきませんでした。

ただ、第2次世界大戦ではリヒテンシュタインにも困ったことがひとつありました。それは、ナチスの思想に同調するリヒテンシュタイン人が少しいたということです。人口1万人のうちたった50人でしたが、なにしろ「紳士の国、エスプリの国」ですから、これを放っておくわけにはいきません。で、どうしたかというと、実は捕まえたあと「二度と戻って来るなよ!」とオーストリアに逃がしてやりました。なんと甘いという人もいるでしょうね。でも、これはこれでひとつの選択です。

当時ナチスの思想にはまったリヒテンシュタイン人たちは主に若者で、どうやら「若気の至り」の結果だったようです。あまり目くじらたてることはなかったのかも知れません。

そういえば、戦後のリヒテンシュタインで国の経済に貢献したある人が元首から勲章をくれると言われたとき、「私は若いときナチスに心頭してこの国に迷惑をかけたことがあるから受け取れません」と答えたそうです。やっぱり若気の至りだったんですね。処刑しなくてよかったよかった。

こうしてリヒテンシュタインは数々の困難をなんだかんだいいながら、結局全部克服してゆきました。しかも、別に策を弄するわけでもなく、ごくまっとうに。そして今のリヒテンシュタインは使いもしない切手の印刷・販売とか、ペーパーカンパニーのおびき寄せといった商売を繁盛させ、世界有数のリッチな国となっています。元首のリヒテンシュタイ家の人々は、本当に何代経ても商売上手ですね。

おしまいに、意外なお話しをひとつ。リヒテンシュタイン侯国の元首は代々ウィーンに住んでいて、リヒテンシュタインには定住してませんでした。初めてファドゥーツの城に定住した人は1938年に即位したフランツ・ヨーゼフ2世です。でも、建国から200年以上も君主が家を空けていながら、メンテだけはちゃんとしていたなんて、これまた不思議な国ですね。それと、生き馬の目を抜く時代の数々を正直で真っ当なリヒテンシュタイン家がかれこれ700年以上もしぶとく生き残ったところも冗談みたいです。


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