オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.081
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ボロ艦隊で勝ったオーストリア海軍
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W. テゲットホフ
W. テゲットホフ

オーストリアはかつて海軍をもっていたことがあります。現イタリアのベネツィアやトリエステを領土にもっていたオーストリア=ハンガリー帝国の時代です。しかし、装備はけっこうお粗末で、あまり戦争に勝てる雰囲気じゃありませんでした。

たとえば第一次世界大戦のとき、成り行き上仕方なくオーストリアは中国・青島で日本海軍と戦うハメになったのですが、軍艦カイザリン・エリザベト号はあまりにも旧式だったので、日本側から「こちらの艦隊が着く前に早く逃げてください」と忠告を受ける始末。で、結局逃げなかったのでその軍艦は沈没してしまいました。

ところが、そのトホホなオーストリア海軍は、戦争で勝ったこともあります。それは「リッサの奇蹟」という名で歴史に記されている海戦です。でも、「奇蹟」なんて言われるところを見ると、やっぱり最初はダメそうだったんですね。

リッサというのは、今のクロアチアにあるアドリア海北東部の島です。1866年7月20日、ここでオーストリア=ハンガリー海軍はイタリアと会戦をしました。インターネットで調べたところ、オーストリア艦隊は全部で25隻。その内訳は装甲艦7隻、木造艦7隻、小型木造艦7隻、非戦闘艦4隻とか。一方、イタリア艦隊は装甲艦9隻、木造艦17隻、非戦闘艦9隻の計35隻だったといいいます。しかし、ゲオルク・マルクス著の「ハプスブルク夜話」では、「オーストリアは27隻で戦闘員5,800人、イタリア艦隊はその倍もあって兵員は18,000人」と書いてあり、もっと差が拡大しています。いったいどっちを信じたらいいのかわかりませんが、いずれにせよオーストリア側の装備がイタリアより貧相だったことは事実でしょうね。

さて、このときオーストリア艦隊を指揮したのはヴィルヘルム・テゲットホフ(1827-1871)という少将でした。この人、名前はドイツ風ですが、生まれは現スロヴェニアのマリボル(独名はマールブルク)です。戦争の仕方はヴェネツィアの海軍学校で習ったのだとか。で、テゲットホフ少将は、第1列の7隻の装甲艦の先頭をゆく旗艦フェルディナント・マックス号に乗船していました。これに続いて第2列にはベッツ将軍のカイザー号(皇帝号)という偉そうな名前の船があったのですが、この列は全部木造船。さらに、第3列にはエベルレ将軍の砲艦フム号がありましたけど、この列はもっとみすぼらしい小型木造船でした。偉い人ほど後方のボロい船というところは笑えますね。

対戦するイタリア艦隊は、3隻の装甲艦が前衛隊としてだいぶ前を進み、そのあとにベルザノ将軍が乗っているはずの旗艦・レディタリア号(イタリア王号)をはじめとする4隻の装甲艦が続いて、さらにそのあとには2隻の装甲艦がいました。で、木造船は全然出陣していません。

さて、この両艦隊は午前10時頃、お互いが見える距離まで接近しました。位置関係は、ちょうどイタリア艦隊の左側からオーストリア艦隊が来たかたちです。で、オーストリア艦隊は進路を90度曲げてイタリア艦隊の後方6隻に向かい突進を開始。イタリア側は先頭の3隻がバックできず戦闘に加われなかったため、木造船も含めて20隻以上あるオーストリア艦隊が6隻のイタリア装甲艦隊と戦闘を開始することになりました。これはオーストリアにとってやや有利です。いくら木造船でも大砲はついてますから、ないよりはマシでしょう。で、これではさすがにイタリア側のベルザノ将軍も早いとこ手を打たなくてはなりません。提督は急いで「攻撃開始!」と命令を出しました。

しかし、イタリア海軍の将校たちはベルザノ提督の命令にウンともスンとも応えませんでした。実は指揮艦のレディタリア号に乗っていたはずのベルザノ提督、ちょっと指令を伝えようと思って装甲艦アフォンダトーレ号に行ってたのです。しかも、提督旗を忘れるという大ボケをかまして。で、将校たちは軍の規則にひたすら忠実だったので、提督旗のなびくレディタリア号から命令が下るの気長に待ってました。だから、旗なしでアフォンダトーレ号から命令するベルザノ将軍の声は、どこかのおっさんの戯言と思われていたみたいです。アホですね。

敵軍のこうした不手際のおかげで、オーストリアのボロ艦隊は難なくレディタリア号の操舵装置を砲撃してぶっ壊し、同装甲艦を操縦不能に陥らせました。そして最後のとどめに、テゲットホフ少将の乗ったフェルディナント・マックス号が速力11.5ノットでレディタリア号の機関部に激突してゆきました。まるで特攻隊ですね。

リッサの海戦
リッサの海戦

この船体激突は、テゲットホフの作戦でした。オーストリア艦隊には大した武器がなかったので、マトモに戦ったら勝ち目がないことを彼は知っていたのです。それで、ボロ船の周囲を鉄道のレールで武装し、敵の戦艦の脇からぶつかって相手を沈没させることにしたのです。事前に「体当たり」の練習もだいぶしていたそうですよ。つまり、特攻隊とは言っても、ヤケクソの玉砕覚悟じゃなかったんです。

ところで、原始的な体当たり戦法を受けイタリア海軍のレディタリア号はものの数分で沈んでしまったのですが、オーストリア=ハンガリー帝国のテゲットホフ少将は勝ちさえすればなんでもいいといった株投機家みたいなタワケ者ではありませんでした。沈みゆく敵艦の兵士たちを見て気の毒に思い、救援ボートを送り込んだのです。しかし、イタリア側のベルザノ提督はプライドが許さなかったのか、これを砲撃。仕方なくオーストリア海軍は救援ボートを引き上げ、多数のイタリア兵士が見殺しになりました。可哀想ですね。この海戦による犠牲者は、オーストリア側が死者38名と負傷者138名で、イタリア側は死者600人以上、負傷者は40名くらいでした。

では、まとめに入りましょう。私は戦争というものを全面否定はしません。ほかに解決策がないのなら、好きに戦ったらいいでしょう。ただし、マナーを守るという条件付きです。たとえば、民間人に手を出さずあくまで軍人同士だけで戦うこと、人のいない辺鄙なところだけで戦い他人の町や村を焼かないこと、そして、勝負がついたらそれ以上の犠牲を出さないためにさっさと戦闘をやめて兵士の救援に専念することです。これが守れない人たちは戦争をしてはいけません。

テゲットホフ少将は、ちゃんと事前に衝突の訓練をしてましたけど、これは敵艦を沈めることだけが目的ではなかったと思います。時速11.5ノットで衝突したとき、自分の部下たちが大怪我をしないようにという配慮があったのは確かでしょう。そして、沈む敵艦の水兵たちに救援ボートをすぐ差し向けたのも、たぶん戦闘前から予め考えていたことだと思います。一方、ベルザノ提督は軍の中じゃ偉いのかも知れませんけど、戦争をする資格は全然ありません。元はといえば、提督が旗を忘れたのがこの海戦の最大の敗因です。それなのにテゲットホフ少将の送った救援ボートを砲撃するとは、軍人の風上にもおけないと思います。個々の兵士だって、好きで戦場に来てるわけじゃないんですから。


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