オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.076
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仏国歌は反オーストリア歌だった
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ストラスブール
ストラスブール

「ラ・マルセイエーズ」といえばフランス革命とよく結び付けられる歌ですが、この歌ができたのはその革命勃発から3年もあとのことだったといいます。

1792年4月20日、フランスはオーストリアに宣戦を布告。そして4月24日、これがドイツとの国境に近いストラスブール市にも伝えられました。翌日、ストラスブールのディートリヒ市長は工兵大尉ルージェ・ド・リールに、「ライン軍兵士を景気付ける歌を作曲してほしい」と依頼します。大尉は張り切って翌日までにその歌を書き上げ、これが4月29日の志願兵壮行式で初公演されました。そのときの歌の題名は「ライン軍軍歌」。なんだかドイツの軍歌みたいなタイトルでしょ。それもそのはず、ストラスブールは独名をシュトラスブルクと言って、仏領になったり独領になったりを繰り返してた所属の曖昧なところです。ドイツ人がたくさんいるのに、第二次世界大戦後の住民投票で結局フランスの一部になったところもテキトーです。

さて、かの「ライン軍軍歌」はその後フランスのあちこちに流れていったらしいのですが、その過程でモンペリエにいたジャコバン派のルミエールがこれを聴きました。で、ルミエールはその歌をマルセイユで披露します。マルセイユの軍楽隊もこれが気にいったようで、そこからパリに発った義勇兵たちはこれを歌いながら800kmの道程を行進。で、パリでこれを聴いた人々は、「マルセイユの連中が歌ってた歌だから、ラ・マルセイエーズ!」と呼ぶようになりました。かなりいきさつはいいかげんでしょ。でも、こういう類の話しはよそにもありますよ。たとえばドイツのグリム童話だって、元はといえばフランスのお伽噺だったものがたくさん入ってます。革命のときフランスからやって来た難民が手土産がてらにお話しをドイツに伝え、これをあとから発掘したグリム兄弟が事情を知らずにドイツの童話としてまとめちゃったんです。誰にも悪気はありませんでした。

ところで、せっかくストラスブールから分捕ってきた「ラ・マルセイエーズ」の歌ですが、実は当時すぐに飽きられて、誰も歌わなくなってしまいました。しょうがない人たちですね。では、なんでこのフランス国歌はその後だいぶたってから再びしつこく歌われてるようになったのでょうか?実はこれにもワケがありました。それは、プロイセンとの戦争です。1870年〜1871年の普仏戦争でフランスはプロイセンに敗北。アルザス・ロレーヌ地方の大半をまた取られるわ、賠償金50億フランは巻き上げられるわで、めちゃくちゃ頭にきていました。それで、「ドイツ野郎め、今に見てろ!」という恨みを込めて、「ラ・マルセイエーズ」をまた派手に歌うようになったのだといいます。この歌で言ってる「暴君」は、知らぬ間にオーストリアからプロイセンにすり替っていたんですね。

しかし、反オーストリアを目的に作曲され、反プロイセンで国歌に昇格した「ラ・マルセイエーズ」って、よく考えるとトホホな歌です。もっと前向きに生きたほうがいいかも。フランスもなかなかおフザケが好きなようですね。

ラ・マルセイエーズの試聴はこちら


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