オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.075
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史上最悪だった19世紀・ウィーンの病院
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ウィーン大学
ウィーン大学

19世紀のウィーンといえば、医学の研究が欧州屈指の水準だったといいます。それはまあいいのですが、高水準だったのは「研究」だけで、「治療」のほうはむしろサイテーでした。

当時のウィーン医学は、「なぜ病気が起こるのか?」と「病気はどのように進むのか?」をアカデミックに追求し、最後の仕上げは「患者はなぜお陀仏になったのか?」を調べるための解剖でしめくくられるのが一般的でした。また、人間は本来平等なものという意識も立派に芽生えていたようで、貧乏な患者も大金持ちの患者もまったく差別なしで病気をほったらかしにされていたそうです。また、医療費は前払いだそうで、医者は研究熱と同じくらい商魂にも打ち込んでいたようです。

病院の看護婦たちも身の毛のよだつような人たちでした。医者たちは無学な者なら黙って言うことをきくだろうと考え、職にあぶれた洗濯女とか料理女を看護婦として雇用しました。で、その看護婦たちは賃金がすごく安かったので患者にチップを求めたりコーヒーなんかを売りつけたりして、商売に応じない患者には「月に代わってお仕置きよ!」と言って投薬拒否なんかしていました。また、12年にもわたって患者の物を盗み続けた看護婦もいたそうです。もっとも、カトリックの尼さんが奉仕で働く某私立病院では、盗みや物売りじゃなく看護をする看護婦もいたそうです。ただし、その尼さんたちも看護の教育は受けていませんでした。ウィーンに看護学校ができたのは、19世紀も終わりに近い1882年のことでした。テオドール・ビルロートとハンス・ヴィルチェク伯爵があまりの状況を見兼ねて堅気の家の子女を看護婦にしようと考え、ルドルフィーナーハウスという学校を作っています。

患者の中でいちばん無視されたのは精神病の人たちでした。この人たちは解剖してもしょうがないということで、ナーレントゥルム(Narrentum)という施設に閉じ込められました。みすず書房の「ウィーン精神」という本ではこのナーレントゥルムをごく控えめに「狂人の塔」と訳していますが、ホントは「バカヤローの塔」とか「道化の塔」といった、もっとひどい意味です。

しかし、ウィーン医学は最初からこんなにスカだったわけではありません。ウィーン大学医学部の歴史は、1745年に女帝マリア・テレジアがオランダからヘールラント・ヴァンスヴィートン(1700-1772)を招いたことに始まります。それまでの悪霊祓い同様な医療を放置していてはまずいということで、少しは科学的な治療を導入しようとしたわけです。ただ、これはこれでやたらに放血治療をする医者が増えるという別な厄介事も生み出しましたが。

その後継者の時代になると、「ヒポクラテス曰く、人間には自然治癒力ありと」として、人為的な手を下すのはやめようという機運が生まれました。その代表例として、グラーツ出身の外科医ヴィンツェンツ・フォン・ケルンは軟膏を塗って圧砥布で止血するという治療法を全廃し、濡れた包帯を巻いて自然治癒力のミラクルパワーが起こるのを待つだけという画期的な対処法を開発しています。こうした涙ぐましい治療放棄の努力により、ほかにやることのない医師たちは、ひたすら病気の研究に没頭してゆきました。おかげでカール・フォン・ロンキスタ(1804-1878)などは、1844年にウィーン大学の医学教授になってから8万5千体もの解剖を行うことができたそうです。もーっ!患者は全然助からなくなったじゃないですか!ロンキスタによれば、「神が作った秩序がいちばん大切で、治療なんかして人の運命を変えては台無し」なのだそうです。こうしてウィーン医学はのちに「治療ニヒリズム」と揶揄される独自の路線に傾いてゆきました。

もちろん、こうした暴走に歯止めをかけようとする医者もいました。ブダペスト出身のイグナーツ・ゼンメルヴァイス(118-1865)はウィーン総合病院の産褥熱が感染症で発生源は解剖室ということを突き止め、医師は産婦を診る前に石灰水で手を洗うべしと提言します。これで産褥熱による死亡者は一気に減りました。しかし、当時の産科長だったヨハン・クライン(1788-1856)はこれを功績と認めるどころか、逆にゼンメルヴァイスを左遷する始末。そのバチが当たったのか、ウィーン総合病院は1898年のある日、全館感染症に汚染という離れ業をやってのけるハメに陥りました。トコトンまでダメダメですね。

ところで、こうしたウィーン医学の末期がハプスブルク家の末期と不思議に時代と状況を一致させているのは、単なる偶然なのでしょうか?ハプスブルク帝国自体も不治の病にかかった患者のようなものでした。そして、君主たちはそれに「治療ニヒリズム」で対処し、20世紀が明けて間もなく帝国はみじめに崩壊してゆきました。

なお、今のオーストリアの病院はちゃんと病気を治すことに力を注いでいます。商魂逞しい医師はまだいますが、追い剥ぎまがいの看護婦(日本語では看護士ですね)はほとんど絶滅しました。とりあえずこれでめでたしめでたしです。


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