オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.070
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誇り高きボヘミアのチェコ国民劇場
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プラハ国民劇場
最初のプラハの国民劇場(1881年)

旧ハプスブルク帝国の中には、今のイギリスのイングランドとかスコットランドみたいにいくつもの王国や公国がありました。その中で非ドイツ系住民の多いメジャー国といえば、ハンガリー王国とボヘミア王国があったのですが、この2つの国は皇帝から対照的な扱いを受けていました。ハンガリーが優遇される一方で、ボヘミアは冷遇されることが多かったのです。

ハンガリーもボヘミアもウィーンの宮廷にそれほど従順だったっわけではありません。しかし、マリア・テレジアの時代にプロイセンがボヘミアのシュレジエン地方を奪ってさらに進軍を企てようとしたとき、ハンガリーはなんだかだとウィーンの宮廷に文句や注文をつけながらも、結局ハプスブルク家に協力をしてくれました。しかし、ボヘミア貴族たちのほうは知らぬ顔です。これでマリア・テレジアのボヘミア冷遇は決定的になりました。

その次にボヘミアとハンガリーの明暗が分かれたのは、フランツ・ヨーゼフ帝とエリザベト皇后(シシー)の時代です。ウィーンのホーフブルク宮殿でとぐろを巻いていたゾフィー皇太后は大のハンガリー嫌いだったのですが、そこに嫁入りしたバイエルン公女エリザベト(シシー)はその姑と折り合いが悪く、半ばあてつけにハンガリー贔屓に走りました。一方、騎馬民族の伝統をもつハンガリーでは、乗馬の腕が立つシシーのことを大歓迎です。そしてシシーはいつしかハンガリーで反オーストリアのタカ派だったアンドラーシ伯爵さえも味方にしてしまいました。こうしてハンガリーは分離独立狙いをやめ、オーストリアもいろいろと譲歩して、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という変な国が生まれました。

これで頭に来たのは気位の高いボヘミアの人々です。歴史と格式は中欧で最も高いはずなのに、国名や紋章ではハンガリーだけがオーストリアと対等に扱われてしまったのですから。これ、騎馬民族で鳴らしたハンガリーのマジャール人を誇り高いけど気さくな薩摩隼人、名門のプシェミスル王家やルクセンブルク家を誇るボヘミア人を京都のお公家さんと置き換えれば、日本の人にもよくわかると思いますが。

さて、ハンガリーに抜かれたボヘミアの人々は気が納まらないとはいえ、間違ってもウィーン政府に戦争などは仕掛けません。もっと別な方法で自尊心を満たそうと考えました。それは、チェコ語で催し物ができる国民劇場の建設です。当時のボヘミアにはドイツ系の住民も多く住んでおり、首都プラハにあった既存の劇場は専らドイツ語しか認めようとしていませんでした。そこで、チェコ人の建築家ヨゼフ・ジーテク(1832−1909)と助手のヨゼフ・シュルツ(1840−1917)の設計をもとに、チェコ語のオペラと演劇を行う「国民劇場」を作ることになったのです。しかもその建設費は人々のポケットマネーでした。

そうそう。ウィーン政府はボヘミアに冷たいとはいえ、チェコ人が思うほど意地悪をしようとしていたわけではありませんよ。あるチェコ人の書いたエッセーでは「オーストリア=ハンガリー政府は1846年まで国民劇場の建築許可を引き延ばした」と書いてましたが、チェコ人が着工したのは1868年で、ウィーンの官僚以上にのんびりしています。第一、ホントに意地悪なら建築許可も出さないでしょう。

この国民劇場は1881年8月12日に完成しました。しかし、ここで大波乱が!まさに落成式をしようという前夜、突然の火災で劇場が焼け落ちてしまったのです。チェコの人々は泣くしかありませんでした。だけど、ここで引き下がってはかつてのプシェミスル家やルクセンブルク家の名君に合わせる顔がありませんね。そう、ボヘミアの人々の誇りはこんな火災なんかじゃ潰れません。建物がまだ燃えきらないうちに突然1人の男が「新しい劇場を建てよう!」と言って帽子をとり、募金を始めました。すると他の人々もどんどんそこにお金を投げ込み始めました。

こうして1883年、前回建築家の助手をしたヨゼフ・シュルツを監督にしてもう一度「国民劇場」の建設が始まりました。その劇場の内部は、コンクールによって選ばれたチェコ人による芸術ですばらしく装飾されます。また、国民総出の寄付運動によって建てられたといういきさつから、舞台の真上には「国民が己のために」という金の文字が大きく刻まれました。この劇場はその後、「黄金の礼拝堂」という別名も得て、末永くボヘミアの人々の心の支えになったそうですよ。

ボヘミアの人々は気位が高いばかりにいろいろな苦労をしました。しかし、ここまでのことをやり通すとなれば、その気位も伊達じゃありません。立派な文明人的行動だと思います。それと、この国がオーストリアやハンガリーに武力じゃなく劇場建設といった文化活動で対抗したのは、ある意味ですごいことです。今の時代は民族独立しか誇りを守る道がないという風潮が広がっていますが、その独立戦争はどこでも多くの難民を生んで、マイナス効果のほうが大きくはありませんか?多民族との宥和をやってのけたほうが、より大きな尊敬を集めると思います。

そういえば、プラハの国民劇場で最初に催されたのは、スメタナの「リブシェ」というオペラでした。リブシェとは、戦いを捨てることを説いた伝説の女王です。そして、その後のボヘミアの人々は、旧ドイツ帝国による占領や旧ソ連による衛星国化にも耐え続け、鉄のカーテンがなくなって静かに政治的な独立を果たすまで、心の独立を保ち続けました。リブシェア女王の精神をしっかり受け継いでいますね。


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