オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.063
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昔はつらかった音楽家稼業
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ヨーゼフ・ハイドン
ヨーゼフ・ハイドン

モーツァルトのメロディーにはなんで似たようなフレーズが何度も繰り返されているのでしょう?この答えはちょっと笑えます。1990年ごろスイスの音大で先生をしていた人によると「当時の作曲報酬は1小節いくらという料金体系になっていたから」というのですから。同じメロディーを繰り返して曲が長くすれば、それだけ収入が増えるというわけです。

こうして考えると、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」などは、ずいぶんと利益率の高い作品ですね。原曲はフランスの古い歌なので著作権(あの時代に著作権があったかどうか知りませんが)は切れていて、アイデアは原価ゼロ。しかも同じモチーフのメロディーをいろいろなパターンで何度も繰り返して合計15分ぐらいに曲を引き延ばしていますから、仕上がりの料金はけっこう高かったはず。まさにボロ儲けですよ。

当時の音楽家は、今でいうなら権威ある「芸術家」ではなく、日々の生活のために曲を書く「作曲業者」とでも表現すべき存在だったといいます。目先の生活がかかっているとなると、あの手この手で稼ぎを増やそうとするのも当然でしょう。どこかの宮廷のお抱えになれば「年金」という保障もアテにできますが、そうでない限りは一生働き詰めです。モーツァルトの父レオポルトが息子ヴォルフガングの宮廷就職に躍起になっていたのも頷けますね。

では、めでたくどこかの貴族に雇用されたら少しはラクになるんでしょうか?生活の保障があるという点では確かにいいのですが、労働条件のほうはそうでもなさそうです。それを物語る例として、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第45番「告別」のエピソードがあります。ハイドンは1761年から1790年まで、ハンガリー系の名門貴族・エステルハージー侯爵に雇われていました。元々は車大工の息子でしたから、なかなかの出世ですね。そのハイドンが勤続10年ちょっとの頃「告別」を作曲した背景には、労働基準法なき時代の止むに止まれない事情がありました。

1772年年のある日、毎日演奏の仕事に次ぐ仕事でずーっと家に帰れず不満の募った楽団員たちは、侯爵家に「休暇を下さい」と訴えます。しかしその願いは聞き入れられません。今のコンピュータープログラマーがすごい残業続きで会社に有休がほしいと言って拒否されるのと、根本的には変わりませんね。で、宮廷には労働組合なんかありませんから、困った楽団員たちはハイドンに仲介を頼み込みます。が、ハイドンとて雇われの身ですから、そう露骨に休みをくれとは言えません。そこで彼は一計を案じ、「告別」を演奏することにしました。これ、最初は景気よく始まるのですが、最後のほうは楽団員がひとりづつ蝋燭を消して去るという侘しい終わり方をする曲です。このメロディーによる説得は成功、エスターハージー侯爵は「わかったわかった」と言って、やっと楽団員に休暇を与えてくれました。

このエピソード、出来すぎといえば出来すぎですが、まあ本当にあったことと信じてあげてもいいでしょう。少なくてもエスターハージー家が音楽家に対してそれなりの懐の深さをもっていたのは事実ですから。

余談ですが、1790年にニコラウス・エスターハージーが亡くなったとき、同家お抱えのオーケストラは解散ということになりました。しかしハイドンは以前の称号をそのまま使うことを許され、ある程度の年金だか給料も支給されたといいます。これで生活の保障を得ながら自由の身ともなったハイドンはその後英国やフランスなどでいわゆる今でいう芸術家らしい活動もできるようになりました。

ところで、忙しい自営業者だったモーツァルトも、宮仕えで長時間残業続きだったハイドンも、奥さんの浪費はかなり激しかったようですね。モーツァルトの最後はビンボーだったと言われますし、ハイドンも奥さんの作った大借金の返済にずいぶん負われていたといいます。夫が忙しすぎて家庭を顧みることができないと奥さんのストレスが爆発することは、今も昔も変わりませんね。浪費に走って稼いだお金を使い果たすのと、少しぐらい収入は犠牲にしても時間的にゆとりのある生活をするのでは、家計の収支も大差なかったかも知れません。その点で、モーツァルトの奥さんとハイドンの奥さんにはちょっぴり同情します。ただし、もし奥さんが収入の減少を許さなかったのなら、自業自得ですよ。


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