オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.061
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ヨハン・オルトの伝説
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ヨハン・オルト
ヨハン・オルト

日本の「源義経伝説」みたいなお話しが、オーストリアにもあるのをご存知ですか?その人とは、上の写真の美男子、ハプスブルク家のヨハン・サルヴァトール大公(1852-1890)です。別な写真では西郷隆盛に似た顔のもあったのですが、ここでは義経のイメージにあわせて若いときの写真にしておきましょう。

この人は頑固者の皇帝フランツ・ヨーゼフに宮廷の改革を主張したかったようですが、事はそう簡単に進まず。そこで頭にきたのか、1872年のある夏の日、「祖妣」に化けてホーフブルク宮の「スイス人の庭」と呼ばれる場所現れました。祖妣というのは先祖の女幽霊で、オーストリアの伝説によるとその家の滅亡を知らせるために現れるのだそうです。もちろん、それが本物の幽霊でないことはわずか3日でわかってしまいました。超高級ワイン5本という賞品釣られた強欲かつ勇敢な兵士に捕まりそうになり、そのときの血痕から人間だとバレて。ただし、本人が大公殿下だったことから、事の顛末は結局もみ消しの迷宮入りになりましたけど。

またあるときこの人はルドルフ皇太子と結託して皇帝に退位を迫るクーデター計画も立てましたが、これはルドルフのマイヤーリンクでの謎の死で頓挫してしまいました。どうもこの時代、改革を目指すハプスブルク家の皇族には悲惨な運命に遭う人が多いですが。

ヨハン・サルヴァトール大公はこのほかにも宮廷からヒンシュクを受けることをしています。それは、ウィーン国立オペラ座の舞姫ミリ・シュトゥーベルとの恋でした。19世紀末のハプスブルク家には、どうも身分違いの女性が好きになるプリンスが多くなっていますね。マトモな感覚ではありますが。もちろん皇帝はそれをすごく嫌がっていました。が、ヨハン・サルヴァトールの意思は固く、この女性を全然あきらめません。そして彼はあっさり大公の地位を棄てて一般市民となり、名前もヨハン・オルトに変えまてしまいました。そして、彼が舞姫との恋を選んだことはウィーンの人々の共感をすごく集めることになりました。やっぱりロマンチックですからね。

ところがある日、ひとつの大事件が起こりました。彼が船長をしていた「聖マルガレーテ号」が1890年7月20日から21日未明にかけて南米で沈没したのです。で、ロイズ保険会社は「ヨハン・オルトはどう考えても死亡したとしか考えられない」として、保険金の支払い準備にかかりました。しかし人々は、「遺体は見つからなかったのだから、ヨハン・オルトはどこかで生きていてミリ・シュトゥーベルと幸福に暮らしているはず」という願望に似た空想を抱き始めました。

こうしていろいろなところに生まれたのが、ヨハン・オルトの生存伝説です。その伝説のひとつでによると、日本にも現れたことになっていますよ。なんでも、日露戦争で日本軍の味方をしたのだとか。たぶん人々は大国ロシアを宮廷の体制派に重ね合わせたのでしょう。そして、ヨハン・オルトが日本を助けてこれを打ち破ったことにして、彼の夢をかなえさせてあげたかったのだと思います。

そうそう、オーストリアのグムンデンという小さな町に、ヨハン・オルトの城が残っていますよ。トラウン湖に浮かぶように立っています。16世紀頃にできたもの(ちょっとウロ覚えです)で、ヨハン・オルトがこれを相続したのは1867年だといいます。私も一度見てきましたが、なんか、伝説の人由縁の城らしい雰囲気がよく出ていましたよ。

オルト城
オルト城(グムンデン)

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