オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.059
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要領のよかったヒトラーの父つぁん
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アロイス・ヒトラー
アロイス・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー(1898−1945)の父アロイス(1837-1903)は飲んだくれのロクでなしで、家庭はボロボロだったという話しがあります。おかげでアドルフは心がすさみ、のちにナチスを旗揚げしたというムチャクチャな論調まで付けて。しかし、これは、ときどきアドルフが父親に怒られていたことに尾ひれがついた作り話しのようです。アロイスは酒好きというよりも女好きですね。それとこの人の生い立ちを調べているうちに、ヒトラーという苗字はけっこう新しいことがわかってきましたよ。

アロイスの元々の姓はシックルグルーバーといいました。田舎からオーストリア第2の都市グラーツの肉屋へご奉公に行っていたマリア・アンナ・シックルグルーバーから、私生児として生まれたといいます。父親はその肉屋の主人じゃないかとされていますが、なんだかハッキリせず。そして1842年に母親はヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚。アロイスはその義理の父の弟にあたるヨハン・ネーポムク・ヒュットラーに引き取られてわりとマトモに育てられたようです。義理の父とその弟の姓が微妙に異なるところは、なんだかいい加減ですね。

余談ですが、ヨハン・ゲオルクとヨハン・ネーポムクの姓が異なるのは、たぶん方言のせいでしょう。オーストリア弁を丸出しにすれば、「ue」は「イ」と発音され、「t」は「ド」という音になりますから、その気になれば「ヒュットラー(Huettler)」を「ヒードラー」と読むことも可能です。ついでながら、モーツァルトもことばが訛っていたようで、「b」と「p」の区別がときどきテキトーでした。たとえば、日記に「インスブルック(Innsbruck)」の町のことを「インスプルック(Inspruck)」なんて書いてますよ。

さて、1851年、アロイスは13歳でウィーンに働きに出て靴職人の弟子になりました。で、試験に合格して一人前の職人になった17歳のとき、彼はなぜかオーストリア・ハンガリー帝国の公務員となり、税関に勤務。こっそり勉強していたんですね。そして1864年には官吏となり、1895年6月の年金生活入り直前には税関上級事務官になっていました。中等教育を受けてない者としては、異例の出世だったそうです。

アロイスが姓を変えたのは1876年11月(1877年という説もあります)のことでした。私生児という生い立ちが出世の障害になりそうだったからだろうと言われています。ただ、この改姓のときアロイスはヒュットラーとかヒードラーではダサダサだと思い、半分だけ訛って「ヒトラー」という微妙に新しい苗字を名乗りました。でも、よくこんなワガママが役所を通ったものですね。私は驚いてしまいました。

新生アロイス・ヒトラーは36歳のとき、50歳の女性と結婚しました。こりゃ、どう見ても財産目当てでしょう。が、そのうちにアロイスは食堂のウェートレスをするフランツィスカ・マツェルスペルガーといい仲になり、妻のアンナとは別居。当時のカトリック教会は厳しかったので、離婚まではできませんでしたが。でも、別居中のアロイスには新しい恋人との間に子供が2人生まれていますよ。こういうのは、当時でもOKだったんですね。で、アンナが亡くなった1883年、アロイスはフランツィスカと正式に結婚をしました。彼女は農家出身だったので、1,000グルデンの持参金付きだったといいます。これは1880年代の官吏の年収の10倍にもあたるのだとか。

2人目の妻フランツェスカは結婚の年の秋に肺を病み、翌年亡き人になりました。呆気ないものです。で、アロイスはこのとき養父ヨハン・ネーポムクの孫娘クララに家政婦をしてもらうのですが、今度はそのクララと仲良くなり、その年のうちに結婚。クララも持参金付きで、その金額は推定約800グルデンとされています。しかし、前の奥さんがアウトになる前に必ず次の女性(しかも高額の持参金付き)を見つけてくるとは、すごい用意周到さですね。オーストリアにはよく逆玉の昔話しがありますけど、これ、なんとなく頷けてきました。

ところで、アロイスは持参金ばかりで暮らしていたわけではありません。晩年の年収は1,300グルデンで小学校の校長と同額、しかも40年勤務したおかげで年金は現役時代の俸給と同等の水準でした。巷ではアドルフ・ヒトラーが子供時代に貧乏で苦労して屈折したなんていう話しもありますが、これは完全に誤りですね。むしろ裕福な家のボンボンです。

それから、アロイスが毎日飲んだ酒量はビールを小ジョッキで3杯でした。お酒の飲めない私には、これが多いのか少ないのかわかりません。でも酔ったことはなく、夕食はちゃんと家でとっていたそうですから、たぶんこの人は大酒飲みじゃなかったんでしょう。年金生活に入ったあとは、ジョッキ1杯分を減らしたといいますし。

以上、アロイスはのちの世に言われるほどひどい人ではありませんでした。要領もよさそうです。もっとも、今の価値観から言えば、模範的な人ともいえませんけど。家庭的なところはなく、しかも厳格でユーモアとは全然縁のない頑固親父でしたから。ヒュットラーでもヒードラーでもなく、ヒトラーという苗字を発明したことが、当人の唯一の冗談でしょうか。

P.S. アドルフ・ヒトラーはドイツ人ではなくオースリア人でした。生まれたところはザルツブルクの北東部にある人口1万8千人の町ブラウナウ・アム・インです。実はそこに、こっそりヒトラーの生家も残ってます。


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