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マリア・テレジアの子供たち
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マリア・テレジア
マリア・テレジア

ハプスブルク家で唯一の女帝だったマリア・テレジアには5人の息子と11人の娘がいました。その内、大人になるまで生きたのは息子4人と娘6人。当時は天然痘で子供の半分が早逝する時代でしたから、これでも運のいいほうでした。今日はそのマリアテレジアの子供たちの送った人生をちょっとご紹介しましょう。

まず、長女のマリア・アンナは体が弱かったので、一生を独身で過ごしました。こういうときはよく修道院送りになったりするものです。しかし、マリア・テレジアはプラハに女学校を作ってこの子をそこの校長にしました。修道院に行くと演劇やコンサートを楽しむなんてことが許されなくなりますから。いい計らいですね。

長男のヨーゼフは父フランツ・シュテファンの死後(1765年)、皇帝の座に就きます。で、張り切っていろいろと改革をしようと乗り出すのですが、どれも準備不足でカラ回り。矛盾した法令を出したり撤回したり、保守勢力の教会を敵に回したりで、結局何の成果もあげないまま世を去りました。ただ、本人が国民の役に立ちたいと思っていたまじめさだけはそれなりに理解され、のちに日本の水戸黄門みたいなノリで「隠れ民衆王ヨーゼフ2世」の作り話しがいくつもできました。

4女のマリア・クリスティーネは姉妹の中でただ1人、恋愛結婚を許されました。相手はザクセン王家の傍系にあたる公子アルベルト。父のフランツ・シュテファンは「身分違いも甚だしい」とこれを拒んでいましたが、マリア・テレジアが「まあまあ!」といって諌めます。そのうちにフランツ・シュテファンは急逝。これで反対者はいなくなり、マリア・クリスティーネとアルベルトは無事結婚しました。その後ハンガリー総督に抜擢されたアルベルトは、ウィーンに近いブラティスラヴァ(独名プレスブルク)にマリア・クリスティーネとの居を構えます。で、この夫婦は政治的に何ひとつ成果を出しませんでしが、生活は幸福でした。また、高い教養をもつアルベルトの芸術品コレクションが世に残っています。その文化遺産を納めたウィーンの美術館は、アルベルトの名を冠して「アルベルティーナー美術館」と呼ばれているそうです。

5女のマリア・エリーザベトはすごい美人で求婚が殺到という状態。どこの王家に嫁ぐのかと親の期待もいっそうだったのですが、24歳のとき痘瘡にかかってしまいます。で、一命は取りとめましたが、その美貌は一夜にして失われました。それで、姉のマリア・クリスティーネがいるプラハの女学校に行ったそうです。

6女のマリア・アマーリエはドイツの小国プファルツ=ツヴァイブリュッケンの公子カールと相思相愛になりましたが、政略結婚で北イタリアのパルマ公フェルディナンドに嫁ぎました。この8歳下の夫は教会の鐘を衝くことと栗を焼くことがお気に入りで、とても君主の器ではないハズレ。で、恋人との仲を裂かれたマリア・アマーリエは頭にきて自暴自棄となり、国政をムチャクチャに。最後はマリア・テレジアから勘当同然にされてしまいました。その後パルマはフランス軍に占領され、マリア・アマーリエは1802年に夫が亡くなるとプラハの修道院に移っています。

3男のレオポルトは父のご領地だったトスカーナ公国の大公になり、フィレンツェを中心としたこの国の文化・経済の発展に貢献しました。その後兄ヨーゼフの死を受けて神聖ローマ帝国の皇帝となりましたが、在位2年で死去。名君の器だったので、惜しいですね。

10女のマリア・カロリーネはガラが悪くて無教養なナポリ王に嫁がされました。可哀想ですね。ただ、夫は大ハズレでも、いい子供たちに恵まれたせいか、人が思うほど不幸になったわけではなさそうです。詳しい資料がないので断定はできませんが、本人がヤケを起こした形跡がないことだけは確かです。でも、よく耐えましたね。

4男のフェルディナントはモデナ公国というどうでもよさそうなところの公爵になりました。まあ、こういう小国のお殿様なら、その後の人生もそれほど大変じゃなかったと思います。実際に住んでいたのはモデナではなくミラノでした。そこの総督も兼任していたので。で、ときには従者1人だけを連れて外出というおき気楽ぶりを発揮して、マリア・テレジアにお目玉をくらっていました。そうそう、ミラノのスカラ座はこの人がいたときに、マリア・テレジアが建ててくれたものだといいます。

11女のマリー・アントワネットはご存知の通り政略結婚でフランスのブルボン家に嫁ぎました。が、これまた夫はダメダメ。マリア・テレジアの娘たちは本当に男運が悪いですね。で、ルイ皇太子(のちのルイ16世)があまりにスカだったので、マリー・アントワネットの心はインテリのスウェーデン人フェルセン伯爵に。ただし、フェルセンはまじめな人だったので、恋人というよりも親友であり続けたようですね。最後はフランス革命後に処刑されたマリー・アントワネットですが、フェルセンに出会えたことは唯一の救いといえるでしょう。もっとも、フランスの民はマリー・アントワネットとルイ16世のおかげで大迷惑でしたが。

最後に、5男マクシミリアン・フランツは息子たちの中で最もデキが悪かったので、子供のうちから聖職者になるための教育を受け、ケルンの大司教になりました。4男のフェルディナントと同様、これは気楽でいいですね。

以上を見ていると、親の期待を受けなかった子供のほうが、幸福な人生を送る確率は高いようです。「親の期待は愛情の裏返し」という人もいますが、そんな無責任な愛情は百害あって一利なしですね。余計な期待で子供を潰すより、ある程度好きなようにさせてあげながら、黙ってそれを見守ってあげる大らかな愛情のほうがいいでしょう。凡人には難しいことですが。

それから、資産や力のある家との縁談も、本当に幸福につながるのかどうか、一度考えてみる必要がありますね。「資産は人を守ってくれる」というのは幻想で、多くの場合は「人が資産の番兵になる」というのが現実でしょう。モデナみたいな小国の番兵でよかったフェルディナントは楽勝でしたけど、力量もないのにフランスという大国を押し付けられたマリー・アントワネットは気苦労が絶えなくてプッツンときてますよ。


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