オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.057
前に戻る


いつの世も変わらぬ学生生活
line


アーダルベルト・シュティフター
アーダルベルト シュティフター

世界に現存する組織で何百年も変わってないものの代表例に、大学があるそうです。確かにボローニャもソルボンヌもオックスフォードもケンブリッジも、全然消滅の気配はありませんね。そこでふと思ったのですが、昔の大学生の生活というのはどんなものだったんでしょうか。

アーダルベルト・シュティフターの本に「3人のウィーン大学の学生たち」というお話しがあります。ウィーンから西に200kmほど行ったオーバーエスタライヒ州(首都=リンツ)出身の学生たちの物語です。3人の名は法学者を目指すプファイファーに医学生のシュミットとクヴィリーン。このうちプファイファーのモデルははどうやらシュティフター自身のようですよ。シュティフターも法学専攻ですから。生まれはボヘミアの小さな町ながら、リンツの近くのクレムスミュンスターというところにあるギムナジウムで学んだ点もプファイファーと同じです。

さて、夢をもって意気揚々とやってきオーバーエスタライヒの田舎学生3人は、初めて訪れたウィーンの町を見て、「なんだ、リンツが大きくなっただけか。」と拍子抜けします。しかし、自分たちはお上りさんなのだから油断は禁物と、田舎にいたとき聞かされた都会の抜け目のなさから身を守るべく、3人で助け合おうと誓いました。でも、結局のところ普通に生活している限り恐ろしいことは何も起こりません。じきに大学にも慣れて、彼らは髭を生やす余裕を見せ始めました。

大学のほうはというと、これがけっこうナンセンス。学生たちは時に無邪気ないたずらで楽しんでいたようです。たとえば、教授が教室に入ってくるや、伯爵の子息である新入生のブラウンがサクランボを食べ始め、その種を前の席に座っている古参学生シュプリンガーのポケットに入れます。さらにサクランボの茎のほうはシュプリンガーの上着の背中の縫い目に器用な手さばきで差し込んで。こうして背中に一列に並んだサクランボの茎は、シュプリンガーがノートをとるために前かがみの姿勢をとるたびに孔雀の羽のように立ちました。これを見た他の学生たちは笑いをこらえるのに必死。講義どころではありません。で、いちばん笑いに負けそうになっていたプファイファーは教授に「まじめにやれ!」と注意されて目をつけられます。のどかですね。でもこれって、大学生というよりも、高校生のやることという気がしますけど。私も高校生のとき似たようなことをやってましたが。

このサクランボ事件以降、プファイファーは講義以外の場でも教授から声をかけられるようになりましたが、その答えはいつも見事だったので特進クラスへゆきます。でも、この特進クラスって何なんでしょうね?ますます高校みたいですよ。それとも、今の日本の大学で司法試験を目指す学生の集まる正法会みたいなものだったのでしょうか?いずれにせよ、選抜クラスがあるということは、講義中にいたずらをしてる学生ばかりではなかったということですね。

優等生プファイファーは勉学にばかりいそしんでいたわけではありません。ウィーン大学で新しい仲間ができると、3人の田舎学生の下宿はすぐに学生のたまり場と化しました。で、日夜集まってはビールを飲み、ソーセージを食べてまじめな議論からアホな話し、さては放歌まで始めます。おまけに、向かいの食堂にいちいちビールやソーセージを注文しにゆくのは面倒だからといって、下宿の窓に旗が出たら注文の目印と食堂のボーイに伝える始末。その旗がひっきりなしに窓から掲げられていたところから見て、どうやら学業よりも飲酒のほうに熱心だったのでは、と思われるフシも。

下宿には誰にでもなつくバカなプードル犬もいました。が、この犬は毎晩違う部屋で寝るクセがあるため、そのうちに誰の飼い犬かわからなくなってしまいます。そういえば、私の通っていた大学でもどこかのサークルが野良犬を拾ってきて部室で飼ってました。で、そのサークルで手の空いた人が順番にその犬の遊び相手をしてましたが、こういう連中は昔のウィーン大学にもいたのですね。

3人は芸術にも目覚ました。クヴィリーンはチェロと格闘して敗北、次は鼻息荒くフルートを吹きはじめます。ウルバーンは厚紙細工に才能を発揮。プラモデルがなかったので厚紙でものを作っていたのでしょう。一方、プファイファーは油絵で人物を描きますが、いつも誰を描いたのか判別不能に。そういえばシュティフターも学生の頃に絵を描き始めていますよ。やっぱりプファーファーのモデルはシュティフター本人ですね。ついでながら、下の絵はシュティフターの作品のひとつ。彼は「絵の上手い作家」としてオーストリアの歴史に名を残しましたが、本人は死ぬまで「本も書ける画家」のつもりだったのだとか。

シュティフターの描いた絵

プファイファーたちの楽しみは芸術だけではありません。あるとき彼らは荒れた寺院に忍び込んで呪文を唱え、亡霊を呼び起こそうと企みました。もちろん亡霊なんて現れませんでしたが。こういうバカらしいこと、面白いという気持ちはわかりますけどね。

そうしたウィーンの学生たちも、就職を控える時期になるとだんだん常識に目覚めてゆきました。プファイファーはある人から推薦を受け、裕福な伯爵家の子息教育係に就職。立派な館に住んであのボロい下宿に郷愁を感じたりしながら、5人の子供をもって伯爵の荘園の管理人に出世。そしてクヴィリーンは立派な名医に。一方のウルバーンは伊達男になったそうで。その他の学生たちも金持ちになったり貧乏を続けたりと、様々な人生を送りましたとさ。

以上を見ていると、19世紀のウィーン大学の学生生活というのは、根本的に今の大学と大差ないですね。まずはほどほどに学問をしながらお気楽なモラトリアム期間を楽しくすごし、卒業が近づくと社会に出るべく心の準備を始めて、就職とその後の生活はたいてい平凡といったところです。もちろん、当時は今ほど大学が大衆化している時代ではありませんでしたから、学生の学力そのものはとても高かったと思います。でも、やってることを見るかぎり、「楽しく悔いなくモラトリアムを過ごすこと」がどうやら学生の本分なんだな、と思えてきました。

そういえば、ドイツには「アルト・ハイデルベルク」という映画にもなった本がありますね。ここに出てくる学生は恋と決闘にずいぶんエネルギーを費やしていたような。現代の大学生が決闘をしないところからみて、刃傷沙汰だけは学生の本分じゃなかったようですね。


line

前に戻る