オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.054
前に戻る


死神を味方につけたフリードリヒ3世
line


フリードリヒ3世
フリードリヒ3世

今日はハプスブルク家で最もウスノロな皇帝とされるフィリードリヒ3世のお話しです。

フリードリヒ3世は1415年9月21日、チロルの古都インスブルックで生まれました。父はイタリアの血を引く陽気なエルンスト鉄公、そして母親は素手で釘を打ち込んだり馬蹄を折り曲げたりできたというリトアニアの豪傑(いくらなんでも誇張のしすぎと思いますが)のシムプルギス・フォン・マゾービエン。フリードリヒはこの母親から粘着質の性格を受け継いだそうです。なんだか凄そうですね。

フリードリヒという名がついたのにはワケがありました。もともと当時のチロルはエルンスト鉄公の弟であるフリードリヒ文無し公のご領地だったのですが、この人は時の神聖ローマ皇帝(=ドイツ王)だったルクセンブルク家のジギスムントに刃向かって帝国追放に。その領地を保全するために来たエルンスト鉄公は、自分がチロルをフリードリヒ文無し公から分捕ったと誤解されるのを恐れて、息子に自分の弟と同じ名前をつけたのだそうです。その成果があってか、フリードリヒ3世は叔父フリードリヒ文無し公に負けないほどの「文無し」にもなりましたよ。サイテーですね。

さて、そうした冴えない生い立ちをもつフリードリ3世に、ある日神聖ローマ帝国の帝位が転がり込んできました。前帝だったルクセンブルク家のジギスムントが嗣子なしで没し、次の皇帝に選ばれたハプスブルク家のアルプレヒト(ジギスムントの娘婿)もアーヘンでの戴冠式を済ませないうちに、対オスマン・トルコ戦の最中ハンガリーで赤痢のために死んでしまったからです。また、当時神聖ローマ皇帝というのは7人の選帝侯による選挙で選ばれていたのですが、この人たちは自分たちの権力の脅威となる強い皇帝の出現など望んでいませんから、フリードリヒ3世のようなウスノロなら喜んで投票しました。

こうして帝位に就いたフリードリヒ3世は、選帝侯たちの期待以上に腰抜けぶりを発揮しました。異教徒のオスマン・トルコがコンスタンティノープルを陥落させても(1453年)、庭いじりをしながら「それは嘆かわしいことだ」というだけで、応戦の気配はなし。おまけにハンガリーの王冠は待女に盗まれてアルブレヒトの妃だったエリザベートの手に渡り、そのあとひと悶着を経てエリザベートの息子ラディアスがハンガリー王に就任。さらにラディアスの摂政となったハンガリー貴族のフニャディは自分の息子マティアス・コルヴィヌスをハンガリーの王とし、ついでにオーストリアにも攻め込んでウィーンを陥落させます。しかし、フリードリヒ3世はウィーンの町を見殺しにして、さっさと逃亡すりばかりでしたした。これに業を煮やした弟のアルプレヒト公は3,000人の軍勢を率いて「帝位をこちらによこせ」と迫ってきましたが、フリードリヒ3世はこれまた篭城とか早逃げでしのぎました。ついでながら、逃亡の費用は法王ニコラス5世などに押し付けていたそうですよ。トホホ。

こうして逃げ回る間、フリードリヒ3世はあつこちの館に「aeiou」という意味不明な5文字を刻み続けます。いったい何のつもりだったのでしょうね、これ。

フリードリヒ3世は結婚生活も悲惨でした。皇帝になったあとポルトガル王家の血をひくエレオノーレと結婚したのですが、なにしろ文無しですから、求婚の使者として送った使者は追い剥ぎも避けるほどの乞食みたいな恰好でリスボンに到着。当地の官警から怪しまれて牢に投げ込まれたといいます。それでも「皇帝」の名に魅かれてエレオノーレはウィンナーノイシュタット(ウィーンのやや南)にあるフリードリヒの城にお輿入れ。この城があまりにもボロいので、正真正銘の貧乏がバレ、夫婦の仲もサイテーに。どうしようもありませんね。

しかし!ここで空気の流れが変わってきます。1463年12月、帝位を要求していた弟のアルプレヒト公が医師を敵の回し者と誤解して診察を断り病死。1490年4月、ハンガリー王だったマティアス・コルヴィアヌスは嗣子もないままウィーンで死亡。その他のライバルたちも次々と寿命がきてしまいました。

さらに、フリードリヒ3世にはできのよい息子マクシミリアンが誕生。しかもフリードリヒ3世は自分のもつ2つの大きな称号のうちローマ王の地位を生前のうちに息子へ与えることに成功します。これでフリードリヒ3世亡き後は次期神聖ローマ皇帝にマクシミリアンが就くという道筋ができ、7人の選帝侯による選挙は廃止に向かいました。それからフリードリヒ3世はマクシミリアンをブルゴーニュ公シャルルの1人娘マリーと結婚させることにも成功。おまけにブルゴーニュ公シャルルは戦好きが不運を招きスイス軍相手に戦死。これで当時の先進国だったブルゴーニュがハプスブルク家のものとなりました。

フリードリヒ3世が亡くなったのは1493年8月でした。メロンの食べすぎが原因だったと言われています。享年78歳。当時としては、すごい長生きですね。そして、このウスノロ皇帝は、結局この長生きのおかげですべての敵に勝ってしまいました。あちこちを逃げ回りながら、死神を味方につけていたんですね。こういう勝ち方もあるとは、歴史って皮肉であるとともに、面白いものです。

その後、かつてのライバルたちの息子はスカばかりでした。一方、フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世はなかなかの名君となり、この皇帝の代からその孫のカール5世に時代にかけて、ハプスブルク帝国は「日の沈まない国」への道を邁進してゆきました。これを見て後の世には、「フリードリヒ3世が刻んだあのaeiouという謎の5文字は『世界はオーストリアのもの』の略号ではなかったのか」なんて分析しているお調子者もいます。私は、こじつけだと思いますけど。やっぱり、フリードリヒ3世は単に運のよかった臆病者だったのでしょう。ただ、臆病ということは決して悪いことではありません。フリードリヒのライバルたちも、大きな勇気に加えてほんの少しの臆病さをもったら、もう少し運は開けていたでしょうね。




前に戻る