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ヨハン・シュトラウス2世はお調子者?
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ヨハン・シュトラウス2世
ヨハン・シュトラウス2世

ウィーンを代表する作曲家といえば、ヨハン・シュトラウスがいますね。父のヨハン・シュトラウス1世だけでなく、息子のヨハンシュトラウス2世も息の長い人気がありました。一方で、モーツァルトの息子は鳴かず飛ばずでしたね。この違いはどこから起こったんでしょうか?

私の見たかぎり、ひとことでいえば、ヨハン・シュトラウス2世はお調子者だったことが、長い人気の秘訣だったようですよ。

1848年、ヨーロッパでは革命がひとつの流行になりました。流行好きだったウィーンの人々も、「とにかく革命をしなきゃ!」という気分になり、ハプスブルク家を打倒する気もないのに、いろんな人が立ち上がりました。ただ、奇妙なことに、ウィーンの町の壁の外に済む貧民の敵は壁の中の市民(主に工場経営者など)、そして市民と学生が矛先を向けたのは政府(皇帝側)、よって政府と壁の外の貧民はちょっと仲良しという変な構図ができていましたが。

この革命のとき、息子シュトラウスはその名もズバリ「革命」という行進曲を作り、宮廷から出入り禁止の処分を受けました。一方の父シュトラウスはイタリア戦線で活躍したラデツキー将軍を讃える行進曲を作曲し、皇帝軍の兵士たちを激励します。まさに政治的信望をかけた父子の戦いですね...表向きは!

1848年3月の革命は、結局動機がいいかげんだったので、結果もいい加減に終わりました。一応皇帝軍の勝ちということで幕を閉じたのですが、市民軍の顔を立ててメッテルニヒのじいさんは亡命です。で、こうなってくると「革命行進曲」を作ったのはまずかったと息子シュトラウスは反省。1853年にはさっそく皇帝を讃える「フランツ・ヨーゼフ行進曲」や「祝砲のワルツ」、「オーストリア更新曲」を矢継ぎ早に作曲しました。

しかし、皇帝は少しムッとして息子ヨハンを「宮廷舞踏指揮者」に任命する動議を2度も却下します。そして息子シュトラウスは辛抱強く皇帝のご機嫌とりを継続、1857年にウィーンの町の発展のためといって皇帝フランツ・ヨーゼフが市を囲む城壁をとり壊すと、さっそく「取りこわしのポルカ」を作曲してこれを賞賛しました。こうしたお調子者ぶりに呆れてか、さすがの皇帝もついに折れ、1863年にはとうとうヨハン・シュトラウス2世に「宮廷舞踏指揮者」という称号を与えました。

その後の息子シュトラウスは、相変わらず世の動きに敏感な作曲活動を続けました。オーストリアがプロイセンに敗れると、国民に元気を出せと「美しき青きドナウ」を作曲、株式投資が流行したあげく暴落が起こると「暴落ポルカ」を作曲して「ウサ晴らしにさあどうぞ!」とこれまた商売のネタにする始末です。「青きドナウ」のほうは当初不評でしたが、妻の助けもあって、後日大人気曲になっていますね。

そういえば、ヨハン・シュトラウス2世の奥さんはヘンリエッテ・トレフツという歌手で、夫より7歳年上でした。この年上の奥さんに逆らわなかったことも、息子シュトラウスの成功の秘訣だったと、私は見ているのですが。年上といってもいろいろありますが、夫よりも精神的に安定していること、あまり正義感が強すぎないこと、物事に楽観的であることの3つを満たしている妻の場合、夫は操縦されているフリをしてでもいいから、妻の力を積極的に活用したほうがいいでしょう。ショパンもジョルジュ・サンドに反抗しなければもっと幸せになれたのにと思います。どう見てもジョルジュ・サンドのほうが力量は上ですから。

ヨハン・シュトラウス2世はのちにオペレッタでも大成功を収めました。これも、妻の助言で始めたことだそうです。当時フランスで流行していたオペレッタにはワルツがたくさん取り入れられていたから、ワルツ王のシュトラウス2世が手掛けたら成功間違いなしとの算段でした。忙しくて目の前の作曲の仕事に追われているヨハン・シュトラウス2世だけなら、こうしたビジネスチャンスは見逃していたかもしれません。そして、賢い妻の助言に素直に従うお調子者ならではの性格も、彼に幸運をもたらしました。

ところで、あの革命のときに、シュトラウス父子が対立していたのは、どうも政治的な信望せいじゃなかったようですね。父シュトラウスが亡くなった1849年は革命の翌年です。一方、息子シュトラウスの時代には富裕な市民が経済力をつけてゆきました。つまり、父は冥土の置き土産としてこれまでの得意先である宮廷にサービスをしたわけで、息子は未来の得意先となるであろう市民に音楽のご奉仕セールを行ったと考えられるわけです。

今でこそウィンナーワルツは立派な芸術といわれますが、当時は1曲いくらの商品でした。その商品を息長く売り続けるには、戦略的なマーケティングと市場のニーズにしっかりマッチした音楽の提供が不可欠です。ヨハン・シュトラウス2世のお調子者ぶりは、この戦略をとるのに、まさに打ってつけの性格ですね。また、もしこの一見軽薄な態度が作戦だったとしたら、彼はすごい経営能力の持ち主ともいえそうです。




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