オーストリア散策エピソード > No.156
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コンスタンツェは本当に悪妻か?
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コンスタンツェ・モーツァルト
コンスタンツェ・モーツァルト(1762-1842)

世界の三大悪妻には、オーストリアのマダムも1名だけ当選を果たしています。その方の名は、コンスタンツェ・モーツァルト。なんでも、療養のための温泉三昧による散財や、夫のヴォルフガング・モーツァルトの葬式に出なかった薄情さが評価されて、人類史上ワースト3の悪妻に燦然と輝いてるんだそうです。

しかし、これにはちょっと言いがかりと思えるところもありますよ。だって、モーツァルトの葬式に出なかったのはコンスタンツェだけじゃありませんから。そこには親族も友人も、誰1人として参列していなかったそうです。これって、実は参列したくてもできない理由があったんじゃないでしょうか?実際、Wikipediaには「誰も霊柩車に同行することを許されなかった」との記述が。それが本当なら(ホントかどうか知らないけど)、武装でもして出かけない限り参列は無理ですね。また、日本語のWikipediaにもうひとつあった「葬儀の日取りは12月6日説と12月7日説の2つがある」という記述も気になるところです。これ、ドイツ語のWikipediaには書いてありませんでしたけど、当局が間違った日取りまたは時間を伝えたおかげで誰も参加できなかったという可能性だってないとは言えませんね。イタリア並みのいい加減さを誇るオーストリアなら、そのくらいのことなど朝飯前です。さもなければ、貴族をこきおろす「フィガロの結婚」に激怒した当局が、人々の参列を断固阻止したとか・・・。いずれにしても、誰も参列しなかった葬式でコンスタンツェだけ槍玉に挙げるのはマトモじゃないでしょう。

もっとも、コンスタンツェがモーツァルトの死後17年もしてから初めてその墓地を訪れたという点は多少の非難も致し方ありません。ただし、これを以てコンスタンツェが悪妻だったと断定するのはちょっと気が早いかも。というのも、実はモーツァルトのほうこそ悪夫で、そのあまりのひどさのためコンスタンツェに見限られていたという可能性だってあるのですから。例えば、温泉療養に幾度となく出かけたコンスタンツェの姿は、ストレスでウィーンを逃れながら各地を旅して回ったシシー(エリザベート皇后、1837-1898)と重ならないでしょうか?そして不思議なことに、デンマークの外交官だったニコラウス・フォン・ニッセンと再婚(1809年)したあとのコンスタンツェには、1人で温泉三昧の形跡が見当たりません。これはニッセンが心休まる当たりくじで、モーツァルトはストレスメーカーのハズレだったと解釈することもできそうですが・・・。

こう言うと、「モーツァルトはコンスタンツェにたくさんの愛情がこもった手紙を書いているじゃないか」という声が出てきそうですね。しかし、そんなにたくさんの手紙があるということは、モーツァルトがロクにコンスタンツェの側にいなかったことの裏返しでもあります。一方、再婚相手のニッセンはモーツァルトほど忙しくなったのか、旅に行くときはコンスタンツェを連れて歩いてましたから、手紙じゃなくことばで話しかける機会が豊富にありました。また、モーツァルトはけっこう浮気もしていたとされますが、ニッセンにはそういうところも見当たりません。素行の違いは無視できませんよ。

ちなみに、温泉三昧で浪費ばかりと言われていたコンスタンツェは、モーツァルトの没後になると別人のようなしっかり者になっています。例えば、モーツァルトが未完で残した「レクイエム」はその弟子を使って完成させ、見事に納品。まずは手際よく商売が一丁上がりです。さらに皇帝に請合って年金の支給も獲得。親類縁者に身を寄せるでもなく自力で子供たちの養育費のメドをつけたところもさすがです。おまけにコンスタンツェはモーツァルトの作品を巡る楽譜出版社との交渉でも大活躍。まさに浪費をするどころか、しっかりと生活の基盤を固めていますよ。

コンスタンツェの甲斐性ぶりを示す事実はほかにもあります。それは、姉のアロイジアや妹のソフィーが最終的にコンスタンツェの住むザルツブルクに身を寄せていたということです。アロイジアは1780年にウィーンで俳優のヨーゼフ・ランゲと結婚し、1895年に夫と別居。一方、ソフィーは1804年にクロアチアでテノール歌手のヤープ・ハニエルと結婚。しかし、1826年に夫が亡くなって未亡人となりました。そして、3箇所に散っていた姉妹がザルツブルクに集結したというのは、とりも直さずコンスタンツェがいちばん頼りになることを示しているんじゃないでしょうか?

そういえば、モーツァルトの音楽家としての評価が本格的に高まったのも、死後にその文化遺産がコンスタンツェの管理下になってからですね。また、コンスタンツェはモーツァルトが生前に作った借金の返済をしたこともあるとのこと。そして、これだけ実力者の妻がいながら生前のモーツァルトが貧乏だったのは、どうも不自然です。ひょっとしたらこの商才が、「女はでしゃばるな」と言われて発揮を許されていなかったという事情でもあったのでしょうか?となると、悪妻はますます濡れ衣の予感が・・・。

余談ですが、私はオーストリア留学中にコンスタンツェとニッセンのお墓を実際に訪れたことがあります。で、今から思うと、この2人がデンマークにある(と思う)ニッセン家の墓ではなく、モーツァルトの父レオポルトと同じ墓地に眠っているのはちょっと不思議な気も。まるでコンスタンツェがニッセンに嫁いだのではなく、ニッセンがコンスタンツェたちのモーツァルト家に婿入りしたみたいですから。こうしてみると、コンスタンツェはモーツァルト家にとって、実はいい嫁さんだったのかも知れません。

また、モーツァルトがコンスタンツェと婚約する際、コンスタンツェの母親は「結婚不履行のときは罰金」という条項をつけようとしたのですが、このときコンスタンツェは「罰金など必要ない」とキッパリ言ってます。それに、モーツァルトの伝記だって、コンスタンツェがいなければこの世に出ていませんでした。これで悪妻呼ばわりされるのは、やっぱりムチャクチャな気がします。もしかしたら、コンスタンツェは天国から今の私たちを見て、「何も知らないオバカさんたち!」と笑っているかも知れませんね。

◆参考資料
Wikipedia - Constanze Mozart
http://en.wikipedia.org/wiki/Constanze_Mozart
Wikipedia - Mozart
http://de.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Amadeus_Mozart
Wikipedia - ヴォルフガング アマデウス モーツァルト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88
音楽サロン - モーツァルトの死と妻コンスタンツェの再婚
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/constanze_dopo_morte_mozart.html
Wikipedia - Aloysia Weber
http://en.wikipedia.org/wiki/Aloysia_Weber
Wikipedia - Sophie Weber
http://en.wikipedia.org/wiki/Sophie_Haibel
Wikipedia - Georg Nikolaus von Nissen
http://en.wikipedia.org/wiki/Georg_Nikolaus_von_Nissen
モーツァルト - 第十章〜第十三章
田辺秀樹著、新潮文庫

◆画像元
Wikipedia - Constanze Mozart
http://de.wikipedia.org/wiki/Constanze_Mozart



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