オーストリア散策エピソード > No.110
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実は商売道具だったウィーンの名物時計
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ウィーンのアンカーウーア
ウィーンの仕掛け時計・アンカーウーア


ウィーンのホーアーマルクトには「アンカーウーア」と呼ばれる仕掛け時計があります。これを日本語に直訳すれば「錨時計」という意味になるのですが、山国のオーストリアで「錨」というのはなんだか奇妙ですね。

アンカーウーアは、ウィーンに縁の深い人物の人形がヤル気なさそうに半日もかけて全体を1周し、12時になると全部の人形が一斉にパレードを行うという愉快な時計です。作者はフランツ・フォン・マッチュという芸術家(1861-1942)で、1914年に完成した(1913年とか1911年〜1917年という説もありますが、ここではこの時計の持ち主の発表を採用)のだとか。

ところで、ウィーンとオーストリアの歴史を作った12人を厳選するとしたら、いったい誰と誰 が適切でしょう?私の考えた面々を時代順に並べると、以下のとおりになります。

まず最初は誰がなんと言ってもカール大帝でしょう。799年にオーストリアの前身であるオストマルク(東方辺境)を築いたと伝えられている人ですから。で、お次はバーベンベルク家のレオポルト5世。オーストリアの国旗の由来につながるインチキ伝説の主です。3番目は宮廷詩人のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデでしょうか。当時のオーストリアにドイツ語圏で最も優れた文化をもたらした1人ですから。4番目はハプスブルク家初の神聖ローマ皇帝となったルドルフ1世で文句ないでしょう。そして5番目にはボヘミア王国の名君カレル4世に負けじとウィーン大学まで創設した建設公ルドルフ4世が妥当かと思います。

続いて6番目には、太陽の沈まないハプスブルク帝国への道を作ったマクシミリアン1世、7番目には酒の飲みすぎでペストに感染せずウィーンの町の不死身ぶりを象徴することになったアウグスティンがいいでしょう。8番目はオーストリアで最も有能な軍事家だったプリンツ・オイゲン公ですね。そして9番目と10番目にはオーストリア建築の2大巨匠、ルーカス・フォン・ヒルデブラントとフィッシャー・フォン・エアラッハを推したいところです。11番目はマリア・テレジアがいいでしょう。この人がいなかったらのちのオーストリアはいろんな列強に食い物にされていたかも知れません。そしておしまいの12番目はモーツァルト。オーストリア音楽家で最も愛されているのはこの人ですから。

さて、こうして挙げた人物をアンカーウーアの作者はどれだけ採用したんでしょうか?結論をいいますと、なんと私の推す12人のうち、バーベンベルク家のレオポルト5世、ハプスブルク家のルドルフ4世、バグパイプ吹きだったアウグスティン、建築家のヒルデブラントとエアラッハ、そして大音楽家モーツァルトの6人が落選でした。

一方、私のリスト以外でこの時計の作者が当選させたのは、ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス、バーベンベルク家のレオポルト6世、全然聞いたことのないハンス・ブルクバウム、ウィーン市長だったリーベンベルクと伯爵のシュターレンベルク、そして音楽家のハイドンです。 また、ルドルフ1世の奥さんとマリア・テレジアのご亭主もパートナーの共演役に出ていますよ。

マルクス・アウレリウスは180年に遠征先のヴィンドボーナ(ウィーンの前身)で没した(別の地というもありますけど)と言われる人物です。「古代ローマ時代から続く文化の伝統をなめちゃイヤン!」というわけですね。で、ハンス・ブルクバウムという人は、よく調べてみたところウィーンのシンボルであるシュテファン大聖堂の最初の建物(1149年落成)を作った人でした。また、バーベンベルク家のレオポルト6世は976年にオストマルクの辺境伯(Markgraf)となっていて、国家としてのオーストリアの始祖にあたりる人でした。そしてリーベンベルク市長とシュターレンベルク伯爵は、1683年にオスマントルコがウィーンを大包囲したとき、オイゲン公の援軍を待つ市民に団結と抗戦の勇気を与えた2人です。さらに、ハイドンはよく考えるとオーストリアで最初に「芸術家」としての音楽家になった人ですね。長いことエスターハージー家にマジメに仕えていたのでサラリーマンという印象が強かったのですが、晩年は年金をもらい生活基盤をしっかり固めたうえでフリーの作曲活動をしています。

こうして考えると、「大きなことをした人」よりも「何かを最初にした人」のほうが優先されているようですね。また、全体として「攻め込む」とか「町を大きくする」といった人物よりも、「守りを固めた人」のほうが選ばれる傾向もあるようです。とはいえ、1683年のオスマントルコによる大包囲に関する人物が3人もいるというのは突出しすぎという印象もありますが。

実をいうとこの突出にはちゃんとワケがあったようですよ。まずこの仕掛け時計の発注主なんですが、なんと「アンカー保険会社」という企業でした。そういえば今日のお話しの冒頭に「山国でアンカー(錨)というのはフシギ」と書きましたが、物資を運ぶ馬に保険をかけるよりドナウ川の船に保険をかけてもらったほうが儲かるということを考えれば、これは当然の銘名ですね。で、同社が対オスマントルコに関係ある人物をことのほかたくさん採用したのは、「人生、何が起こるかわからないのだからしっかり保険に入りましょう!」という宣伝のつもりだったようです。芸術作品創造のフリをしてビジネスに励むとは、なかなか抜け目のない会社かも。もっとも、本気で保険事業の拡大を図るのなら、やっぱりペストの時代にすべてを失いながら元気に立ち直ったアウグスティンも時計のメンバーに入れるべきだったと思いますが。

P.S. アンカー保険会社は今でも営業してます。同社のHPはこちら、そしてこの会社によるアンカー時計のご案内はこちらにあります。

◆参考資料:

ウィーン便り − ウィーンの歴史
諏訪功著、三修社
ウィーン今昔物語 - ウィーンの歴史: ホーアーマルクト(Hoher Markt)http://members.aon.at/hwien/meisho/platz/hohermarkt.html
aeiou: All about Austria - Ankeruhr
http://www.allaboutaustria.at:81/aeiou.encyclop.a/a568376.htm
aeiou: All about Austria - Matsch, Franz
http://www.allaboutaustria.at:81/aeiou.encyclop.m/m310828.htm
Vienna Online -die Ankeruhr
http://archiv.vienna.at/Pubs/Redaktion/Sightseeing/Sightseeing-61927.shtm


◆画像元:
ウィーン今昔物語 - ウィーンの歴史: ホーアーマルクト(Hoher Markt)http://members.aon.at/hwien/meisho/platz/hohermarkt.html



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