オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.049
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不思議な魅力の女流画家・A.カウフマン
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A.カウフマン
アンゲリーカ・カウフマン

1982年のオーストリアの100シリング紙幣には、アンゲリーカ・カウフマン(Angelica Kauffman1741-1807)というとても綺麗な人の肖像画がありました。「カウフマン」という苗字(fが1個多いけど)は日本語でいうと「商人」にあたるのですが、この人、あまり実業家という感じじゃありませんね。で、調べてみたら、なんと画家でした。しかも、生まれはスイス、育ちはイタリア、画家として飛躍したのは英国、終の棲家はイタリアで、オーストリアにはほんのちょっといただけです。なんでこの人がオーストリアの紙幣を飾ったのでしょうか?

アンゲリーカのフルネームは「アンゲリーカ・マリア・アンナ・カタリーナ・カウフマン」という長い名前で、生まれはスイス東部のクーア(今のグラウビュンデン週の州都)、父親は画家のヨーゼフ・ヨハン・カウフマンといいました。アンゲリーカは幼い頃から利発だったそうで、ヨーゼフは彼女が少女の頃からプロの画家になるべき教育を始めたといいます。当時の画家は男性ばかりでしたから、女の子に芸術教育って異例のことです。お父さんの仕事の手伝いまでしていたそうですよ。

アンゲリーカの生まれたスイスのクーアという町はドイツ語のほかにレトロマン語を話す人々(少数派です)もいるところでした。そしてこの家族はアンゲリーカが生まれた翌年の1742年から1757年まで、イタリアに住むみます。彼女の表情に明るい優しさが垣間見られるのは、この太陽の国で幼少時代と少女時代を過ごしたことにも関係ありそうに思います。

そして1757年、カウフマン家はやっとオーストリアに来ます。このとき住んだ町はシュヴァルツェベルクでした。だいぶ田舎のようですが。しかし、オーストリアにいたのはほんの6年だけ。1763年になるとアンゲリーカはローマを初訪問し、そこから約2年にわたってミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、フィレンツェを旅しました。こうした当時の文化先進都市を回ることで、彼女はいろいろな教養を深めていったようですよ。そして1765年、アンゲリーカはローマにあったサン・ルーカス・アカデミーのメンバーに選ばれました。

そういえば、アンゲリーカは絵画だけでなく、文学にも造詣が深かったようです。それで、どちらの道に進もうか、迷った時期があったようですね。その気持ちの表れが下の絵です。タイトルは「文学と絵画の間で迷うアンゲリーカ」。真んの白いドレスを着たのがアンゲリーカ自身です。なんだか優雅な悩み方ですね。

文学と絵画の間で迷うアンゲリーカ

さて、文学か絵画かで迷った彼女ですが、結局は得意の肖像画を描くほかに、文学や神話をモチーフにした絵を描くということで、両方をとったようです。下にある絵はそうした2つを両立させたアンゲリーカの作品のひとつです。なお、彼女の絵は学問的な分類でいうと「新古典主義」に属するのだそうです。でも、実物の絵の筆のタッチを見るとわかりますが、ロココの息吹もちょっと感じられますね。同時代の画家にはめいっぱいロココのフラゴナールやブーシェもいますけど、私はこの2人よりもアンゲリーカの絵のほうが、落ち着いた気品のある分だけ上等かと思っています。

カウフマンの絵

ご参考までに、フラゴナールとブーシェの絵もちょっとご覧ください。フラゴナールの絵は大変きれいなのですが、私としてはちょっと媚びた印象のあるかな、という気がします。一方、ブーシェといえば「マダム・ポンバドゥール」の絵は肖像の主の知性、教養、品性、そして野心と自信までを見事に描いてますね。この絵、私は好きです。ただ、親しみという点では、やっぱりアンゲリーカ・カウフマンに軍配を上げたいところです。

フラゴナールの絵ブーシェの絵


イタリアの旅を終えた彼女は1766年、ウェントワース夫人に同行して英国へと渡りました。そしてここで上流社会の人々の肖像画を描き、彼女は成功を得ます。また、彼女はロンドンに1781年まで住み、そこでロイヤル・アカデミー会員にもなりました。当時、女性でこの会員だったのはアンゲリーカただ1人だったそうですよ。まさに、不思議なくらい格別の待遇が続く人ですね。

ロンドン最後の年(1781年)、彼女はヴェネツィア出身の画家アントニオ・ズッキーニ (1726-95)と結婚。40歳というのは、当時としてはかなり遅いですね。この結婚の年、彼女はローマに戻ります。すると、今度はヴェネツィア・アカデミーが彼女を会員に選びました。ホントに、どこに行っても人気ですね。このあとアンゲリーカはずっとローマに住み続け、1807年になくなりました。

カウフマンは当時大人気の画家で、神話や歴史をモチーフにした絵をよく描きました。また、文学をモチーフにした絵や肖像画もたくさん描いています。交友も広く、画家たちのほかにドイツの文豪ゲーテや考古学者のJ. J.ヴィンケルマンなどの友人でもありました。説教の好きなゲーテも彼女には一目置いていたそうですよ。ただ、有力な王侯貴族とか政治家の友人は全然聞きませんね。

ローマでもロンドンでもヴェネツィアでも異例の女性アカデミーの会員に選ばれ、たった6年しか住むまなかったオーストリアで100シリング紙幣の肖像に採用されたアンゲリーカ・カウフマン。その彼女の人気の秘密を明らかにした資料は結局ありませんでした。しかし、アンゲリーカがここまで愛された理由は、意外と単純なところにありそうですよ。彼女の肖像画の表情や絵のタッチを見ると、優しく、上品で、しかも媚びるところのない教養人だということはすぐにわかります。しかも、彼女には名誉心に駆られてぎらぎらしたところもありません。いつも平静という印象です。こうした彼女の肖像をぱっと見て、多くの人がなんとなく好感をもつと思います。その「なんとなく好感を与える」という点が、どうやらアンゲリーカの最大の武器だったのではないでしょうか?そして、このアンゲリーカの生涯には、どこか普通の神経をもった人が魅力的に年をとってゆくためのヒントもありそうですね。


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