オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.043
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ルドルフ皇太子の幽霊退治
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ルドルフ皇太子の幽霊退治
ルドルフ皇太子

19世紀後半のウィーンでは、降霊会(つまり幽霊を呼ぶこと)というのが流行っていたそうです。1848年にニューヨーク郊外の寒村で2人の姉妹が演じた超常現象が評判になってまず米国で降霊会が流行し、これが欧州にも上陸したといわれています。ちょうどその頃にはダーウィンが進化論(1859年)を発表、これを読んで「人間の祖先がサルとはなんたること!」と腹を立てた連中が、幽霊を呼んでホントかどうかを訊こうとして降霊会熱に拍車をかけたなんていうところは少し笑えますね。ウィーンの人々もその例外ではありませんでした。ただし、そうしたヒマなことをやっていられたのは、富裕な上流階級だけでしたけど。

さて、こした降霊会には反発を示す人もいました。その代表格は、シシー(エリザベト皇后)の長男ルドルフ皇太子(1858-1889)です。実はシシーもオカルト好きで、ルドルフが小さい頃やたらと幽霊の話しをしていたそうです。で、ルドルフはそれがイヤで、すっかり幽霊嫌いになってしまいました。そこに降霊会の流行ですから、たまったものではありません。そこでルドルフは、降霊会ブームにうつつを抜かす人々に向け、匿名でこき下ろしのパンフレット(ドイツ語でパフレットといえば「中傷文書」を意味します)まで出しましたが、それでも気が済みませんでした。

こうした中、ルドルフに心強い協力者が現われます。それは人望高い叔父のシュタイアーマルク大公ヨハンでした。ヨハン大公は科学好きでしたから、もちろん幽霊なんて冗談じゃないと思っていたことでしょう。彼はルドルフと結託して、霊媒師のペテンを暴こうと企みました。

2人はまず、ウィーンで2度にわたり降霊会を主催しました。たぶん霊媒師の腕前を偵察するためだったのでしょう。そして1884年2月11日、ついに作戦の日がきました。ところはハプスブルク家の異端児であるフランツ・サルバトールの住まい、ゲストはラッツァー・ヘレンバッハ男爵と有名な霊媒師ハリー・バスティアンでした。またこの降霊会に先立って、ルドルフとヨハンは図書室と書斎の間に、紐を引っ張ればドアがバタンと閉じるしかけをしておきました。これで、役者も仕掛けも上々です。

さあ、いよいよ降霊会のスタートです。バスティアンは2人の予想通り、まずはドアの前にカーテンをかけるように要求してきました。そして彼は1人1人の霊を呼び始めます。で、3番目に女性の霊が出てきたとき、ルドルフとヨハン大公は打ち合わせ通りに紐を引いてドアを閉めると、急いでカーテンの中に入ってそこに潜んでいたバスティアンを引きずり出し、明かりをつけました。これで霊媒のインチキはバレバレ、バスティアンは面目丸潰れになってしまいました。

インチキ・バスティアン

<写真>カーテン裏に潜む偽霊媒師バスティアンを引きずり出すルドルフ皇太子とヨハン大公。観客は「あっと驚く為五郎状態」に。しかし、この絵を描いた人もヒマといおうか、いやはやです。


翌日の「新ウィーン日報」にはさっそく、「バスティアンはウソツキ霊媒師」という内容の匿名記事が掲載されました。その記事の詳細さから考えて、ルドルフが自ら書いたことは明らかでした。ただ、当時の新聞は売子による販売ができなかったうえ、「新ウィーン日報」は「反王権的」ということでオーストリア政府からタバコ屋での販売すら禁止されていたといいます。人々はいったいどこで買って読んだんでしょうね。

このインチキ霊媒師の退治を聞いて、頑固親父のフランツ・ヨーゼフ皇帝は珍しく息子のルドルフ皇太子を素直に「あっぱれ!」と褒めたそうです。しかしルドルフの教育係だった叔父のアルプレヒト大公は、「次の皇帝になる者が霊媒師相手にムキになるとはなんたる破廉恥!」といって怒っていました。まあ、アホなドタバタ劇といえばそれまでですが、これでルドルフの「幽霊こわーい!」が治るのならいいのではないかと、私は思いますが。皇太子だって人であることには変わりないのだから、こういいう愛嬌ぐらいあってもいいでしょう。ついでに「人間の祖先はやっぱりサルの仲間らしい」ということも証明したのですから、相棒のヨハン大公だって喜んだことでしょう。


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