オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.034
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カフェーはウィーン版の「男湯」だった
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カフェー・ツェントラール
カフェー・ツェントラール

ウィーンにコーヒーが伝わったのは17世紀後半、最初にできたカフェーハウスはアルメニア商人のディオダードが1685年に開業したオリエント交易商人相手の店だったといいます。一方、市民相手に最初のカフェーができたのは1697年のことでした。しかし、皇帝が3年後に新規開業の許可を打ち切ったため、1700年の時点でウイーンにあった「市民カフェー」はわずか4軒にすぎませんでした。のちのカフェー文化の興隆からは想像もできないことですね。

一方、ウイーン名物の文学カフェーで最初の1軒といわれたのは、市の中心部のグラーベン通りにできたカフェー・クラーマーでした。ただし、そのカフェーを有名にしたのは1720年に店を開いたクラーマー氏ではなく、1771年9月26日にこの店を買い取ったミヒャエル・ヘルトルとカタリーナ・ヘルトルの夫妻でした。この夫妻は、各国の新聞や政治雑誌などを店に常備することで、文人たちを惹きつけたといいます。しかし、ヨーゼフ2世(1741-1790)のときに緩和された思想統制がフランツ2世(1768-1835)よって再び厳しくされるとともに、こうした文学カフェーは一度衰退してゆきました。ウィーンのカフェー文化が満開となるには、まだ時間が必要だったのですね。

次のカフェーの興隆期は、1830年〜1848年のビーダーマイヤー時代でした。ナポレオン軍の嵐とその後始末が終わり、ウィーンにひとときの平和が訪れた小市民趣味の時代です。記録によると、1839年のウィーンには88軒のカフェーがあったといいます。当時を代表したカフェーはイグナーツ・ノイナー経営の「白銀館」でした。ここにはライムントやグリルパルツァーなどの文士が集まったといいます。でも、その面々のことはまあどうでもいいでしょう。それより面白いのは、この白銀館の2階に「女性用の部屋」があったこと、そしてその部屋を使っていたのはヨーゼフ・フォン・フリードリツ男爵という男性だったことです。当時のカフェーは男性だけの溜まり場でした。カフェーの中にはチェスやビリヤードの部屋なんてのがよくありましたし、タバコをふかす連中も多かったので、女性のカフェー通いははしたないという風潮があったのです。そこで店主のノイナーはタバコの煙の来ないところで女性にも心おきなくコーヒーを味わってもらおうと、品のよい調度品を集めた別室を設けました。しかしこれは空振りとなり、せっかくの女性専用室はタバコを嫌うフリードリツ男爵の専用室になってしまいました。

その後もウィーンのカフェーの数は増え続け、1857年には100軒、1890年には600軒、そして1910年には1,200軒にもなったといいます。そして、カフェーに各国の新聞が置かれ、男性客ばかりが来るという傾向もずいぶん長いこと続きました。でも、これだけカフェーが大衆化してくると、そこで話される話題は文芸や政治だけじゃなく、もっとリアルな日常のことにもだいぶ広がっていたようです。それを裏付けるかのように、ウィーンでは恋の相談や人生相談にも乗ったりする名物給仕長などが次々と現われました。また、警察から政治活動家を守った給仕長なんのもいますよ。もちろん、政府のスパイをして客を監視する給仕長もいましたが。客も客で、ほとんどカフェーに住み着くような輩まで出てきます。たとえば詩人ペーター・アルテンベルクは人に住所を聞かれると「カフェー・ツェントラール」と答え、事実そこに送られた手紙はちゃんとアルテンベルクの手元に届きました。でも、こうした勝手気ままが通用するのは、男ばかりの世界だったことと無縁ではありません。女性が同席するところでは失恋、猥談、借金の話しだけでなく、文学論や政治論だってぶちにくいものですからね。ある意味で、当時のカフェーには、昔の日本の銭湯の「男湯」みたいなところがあったと思います。

あれから長い時を経て、かつての姿をしたウィーンのカフェーはもはや過去のものとなってしまいました。カフェー・ツェントラールもハヴェルカも、今では観光客に占領された普通の名所です。昔のカフェーは男女平等化の波のなかでいわゆる「混浴状態」の場となり、そこから衰退してゆきました。混浴の温泉では誰もが水着を着ますよね。カフェーも同じです。多くの未知の異性の前では誰もが1枚づつ衣をまとい、だんだん本音ばかりは言ってられなくなります。そして、カフェーハウスの主役はいつしか「社交」ではなく「コーヒー」に変わってゆきました。おかげでコーヒーやケーキはだいぶおいしくなったと思いますが、代わりに本音のぶつけ合いは消えました。

こうして考えると、ことカフェーだけに関して言えば、「女性専用室」を設けたビーダーマイヤー時代のノイナーの選択が最も正解だったような気がします。温泉の、「男湯」と「女湯」と同様、「男カフェー」と「女カフェー」に分けていれば、昔のウィーンのカフェー文化は男性だけではなく女性の間でも花開いたことでしょう。「男女混浴」はやっぱり無茶です。平等化の方法を間違えて、惜しいことをしましたね。


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