オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.030
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世にも奇妙な日本とオーストリアの戦争
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カイザリン・エリザベト号
オーストリア=ハンガリー帝国の軍艦 エリザベト皇后号

日本とオーストリアはたった一度だけ、戦火を交えたことがあります。しかし、それは実にイヤイヤながらで、こんな戦争もあるのかと思えるほど奇妙な会戦でした。

1914年6月28日、サラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ=フェルディナント大公夫妻が暗殺されたニュースは、日本でも大きな同情をもって受け止められます。しかし、ここで厄介なことが持ち上がりました。オーストリアがセルビアに宣戦布告、皇帝フランツヨーゼフはこれを2国間の戦争で終わらせようとしていたのですが、同盟国のプロイセンが暴走して、事態は第1次世界大戦へと拡大していったのです。

当時日本は英国と同盟を結んでいました。そして英国は連合国側、オーストリアは同盟国側ということから、成り行き上日本とオーストリアは敵同士ということになってしまいました。しかもそのとき、たまたま中国の青島にはオーストリアの軍艦「エリザベト皇后号」が停泊していました。この軍艦は古くて速度が遅く、当時の日本の軍艦と戦ったら負けることは明らかでした。しかも石炭などあまり積んでいませんでしたから、ハワイやアメリカに逃亡することさえできません。それまで友好関係にあったオーストリアの軍艦をどうにか沈めないで済まされないものか、日本側は頭を悩めました。

そこで日本政府とオーストリアの駐日大使らは妥協案を画策、エリザベト号を武装解除してしまおうということになりました。戦闘能力のない軍艦なら砲撃の必要なしという理屈で、事を丸くおさめようとしたのです。そして8月24日、艦長直属の17名を除く400人の乗組員は鉄道で天津へ向ってゆきます。これでこの問題は回避されたかに見えました。

ところが、ベルリンではプロイセンの皇帝がオーストリア=ハンガリー大使武官に、「エリザベト皇后号は青島で勇敢に戦うはずだね」と述べます。これを受けたオーストリア政府は自国の身を取り繕うために、なんとこの軍艦を青島にとどめるように決定、日本に宣戦布告をしました。8月26日、事態を新聞で知った駐日大使ミュラー=セントジェルジはこれを真先に加藤外務大臣に報告、2人は敵意の生じる理由のない2国が敵対せざるを得なくなったことを非常に残念がりました。が、加藤外相は最後の望みをかけて、「エリザベト皇后号が妨害を受けずに上海へ航行し、そこで武装解除することに、たった今英国が同意した」ということを強調しました。

しかし、結局エリザベト号はそのまま青島にとどまり、自沈を決めます。9月27日、ついに交戦に突入、10月中は昼夜を問わず砲撃を受けました。そして11月2日にかけての夜、乗組員の上陸を済ませるとエリザベト号は湾のいちばん深いところに移動、最後に艦長らが導火線に火をつけてそこを脱出しました。それからエリザベト号は艦内で鈍い爆発音を轟かせながら除々に傾いてゆき、午前2時55分に海中深く完全に沈んでしまいました。想像すると悲しそうな光景ですね。

オーストリア=ハンガリー帝国の水兵のうち、この青島の戦闘で戦死者したのは10名、負傷者も同じく10名でした。戦死したのは、ウィーン人4名、ドイツ系オーストリア人2人、ドイツ系ボヘミア人1名、チェコ人1名、ハンガリー人1名、ポーランド人1名で、その葬儀は11月9日、しめやかに行わたといいます。しかし、その他の約400人におよぶ乗組員の命は助かり、ほとんどが姫路の捕虜収容所に入れられました。

日本を訪れた最後のハプスブルク帝国の船が沈んだのはとても残念なことですね。しかし、その乗組員のほとんどが助かって後の世に禍根を残さなかったのは、大きな救いです。最後までお互いに冷静さを忘れなかったこの奇妙な戦争は、世界のどこにも例のない戦いだったと思います。


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