オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.025
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ソ連を手玉にとったじいさん
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カール・レンナー
カール レンナー

第二次世界大戦末期の1945年春、ウィーンに到着したソ連軍はオーストリアの田舎で隠遁生活をしていた75歳の老社会民主主義者カール・レンナー(1870-1950)を見つけ出し、このじいさんを勝手に臨時政府の首班に任命しました。カール・レンナーには、過去にヒトラーによるドイツ帝国とオーストリアの合邦を条件つきながら承認したという弱みがあります。それでソ連は、彼が自分たちの言うことに逆らえないだろうと考え、傀儡政権にはもってこいの人物だと思ったようです。

そしてこの年の4月27日、ソ連が一方的に発表したレンナーの臨時政府は、共産党に内相と教育相の重要なポストを与え、その他でも多くの点でソ連に譲歩をしたものでした。おかげでレンナーはオーストリア国民から「裏切り者」と非難を受けますが、本人はそんなことなどどこふく風といった姿勢をとります。まさに、スターリンの思うツボですね。あとは折を見て他の大臣を共産党員の内相に逮捕させればいいのですから。しかもレンナーはこのとき、「戦後のどさくさ時は仕事が多いから」といって、各大臣に2人前後の副大臣をつけさせるなどのサービス精神も発揮しました。

ところが、米英仏の西側連合諸国は、ソ連が樹立したこのレンナー政権をなかなか承認しようとはしません。それどころか、オーストリア西部のチロルで対立政府を樹立する動きさえ見せます。これにはソ連も困りました。そこで、レンナーがこれをどうにかしようと、西部諸州との接触に乗り出します。ソ連は一刻も早くオーストリアを我が物にしたかったので、「レンナー、頼んだぞ!」というしかありませんでした。

さて、それからレンナーは西側諸国に信任の厚いチロルの指導者・グルーバーを外相として迎え、そのほかにも西側占領地区の政治家を入閣させるなどの懐柔策をとって、10月20日にとうとう米英仏から新政府樹立の承認を得ました。こうして樹立された新政権は、西側的な自由主義政党が多数派を占めたものの、内相とウィーン警察のポストは共産党が占めていましたから、ソ連はこれでいよいよオーストリアを共産主義化できると思いました。しかし!これまでレンナーがとってきた行動は、彼がソ連を相手に仕掛けた罠でした。まず、共産党出身の内相が何かしようとしても、レンナーに任命された他党出身の副大臣たちが邪魔をしました。しかも、西側連合国への懐柔策と称してレンナーが集めた西部諸州の政治家たちは、ナチス時代に同じ収容所に入っていた縁もあって、過去の右派と左派の枠を超えて協力し合い、新たな収容所を作りそうな共産党勢力につけ入るスキを与えません。

そして同年11月25日の第1回総選挙で共産党は大敗。得票率は右派の国民党49.8%、左派の社会党44.6%、そして共産党はわずか5.4%になりました。この結果共産党はわずかに電化相というどうもいい閣僚ポスト1つをもつだけとなり、内相などの重要なポストはことごとく失ってしまいました。頭にきたソ連は「こうなったら力づくでいくぞ!」と息巻いて、オーストリアへの内政干渉の口実作りに、デモやゼネストや暴動を画策します。しかし、この手法はレンナーたちにとって、すでにナチス時代に経験済みです。前回は対策をしくじりましたが、同じ手は二度と食いません。今度はことごとく敵の企みを阻むことに成功しました。その結果、ついにソ連は条件付きでオーストリアの自立を認めざるを得ないハメとなります。その条件のひとつは、オーストリアが永世中立国になることでした。せめてオーストリアとドイツの合併が二度と起こらず、ついでに西側の軍隊がブレンナー峠を越えてイタリアとドイツの間を自由に行き来できないようになれば少しはマシか、とソ連は妥協したのです。

騙したつもりが騙されたソ連。スターリンはさぞ悔しい思いをしたことでしょう。隠居していたカール レンナーは、ソ連がチェコやハンガリーでどういうことをしでかすか、じっくり観察していたのです。しかもこのじいさんは、自分の過去の政治的な弱みをネタにソ連が油断するだろうということまで、計算済みでした。ソ連の完敗です。


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