オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.020
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悪徳商人が開いたウィーン最初のカフェー
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ウィーンでカフェーが誕生したいきさつには、面白い伝説があります。

1683年、オスマントルコが第2次ウィーン包囲を敢行。帝都は未曾有の危機を迎えました。そこにかけつけたのはポーランド王ヤン・ソビエスキーとロートリンゲン公カールの援軍。下の絵のように派手にドンパチやったあげくトルコ軍を敗走させ、危機一髪のところでウィーンを救うことに成功しました。そしてトルコ軍の去ったあとには、コーヒー豆の入った数百の袋が。この豆は、戦火の中をかいくぐってロートリンゲン公への伝令役を務めたコルツィツキーという男に、皇帝から褒美として授けられます。そしてコルツィツキーはウィーンで最初のカフェーを開業したのだそうです。

オスマントルコとの戦い

ところが、のちの歴史研究によって、この伝説は嘘八百で固めたインチキ話しで、しかもコルツィツキーはほら吹きの大ペテン師だということがわかってきました。この男、他人の功績を乗っ取っていたのです。確かに1回だけは伝令にいきました。しかし、本当の肝心なときに伝令役を果たしたのは、東欧や中近東のことばに明るいミヒャエロヴィッツという人でした。しかしコルツィツキーは、この重要な伝令役の主役が自分だったと宣伝ビラで大々的に主張、おまけにミヒャエロヴィッツは自分の従者だという話しまでデッチあげて、まんまと自分を英雄に仕立て上げます。とんでもないヤツですね。それにひきかえ、ミヒャエロヴィッツの人のよさといったら。

さて、それではウィーンにコーヒーが伝わったのって、本当はいつだったんでしょう?実はこれ、コルツィツキーの伝説のずっと前だということが判明しています。まず1645年には、ウィーンに来たトルコ使節団の接待時にコーヒーが出されたという帳簿記録が残っています。また1668年にはベオグラード出身のアルメニア人商人デメトリウス・ドマシーがウィーンにコーヒーを輸入していたようです。さらに、1669年頃には、トルコ大使カラ・メヒメト・パシャがウィーンでトルコ風に美しく整えた客間にオーストリアの宮廷関係者を招待し、トルココーヒーやシャーベット(シャーベットってトルコ語です!)、チョコレートなど、当時のヨーロッパでは珍しかった食べ物でもてなしをしています。このときオーストリア貴族がトルコ高官に「ギブ ミー チョコレート!」言ったかどうかは知りませんが。そして、民間レベルでコーヒーを広めていったのはアルメニアの商人たちでした。

当時のアルメニア商人はオーストリアだけなく、北欧やオランダ、フランスにも進出して、時には非合法的な手も使いながらライバルのユダヤ商人を蹴落とし、ずいぶんな荒稼ぎをしていました。何しろ今と違ってこの時のイスラム圏はキリスト教ヨーロッパをしのぐ先進地域でしたから、トルコからヨーロッパに売りつけるものなどいくらでもあったのです。そして、自分たちはキリスト教徒だけどご近所はイスラム国ばかりというアルメニア人はその利点を大いに生かしました。もちろん、ウィーンで最初のカフェーを開業したのもアルメニアの有力商人でした。時は1685年、その人物の名はヨハネス・ディオダードといいます。ディオダードは王侯相手の宝石商の息子で、1654年にウィーンを初訪問しました。その後この町に腰を据えて、1670年にはトルコ商品の販売許可を得ながら、しだいに政商へとのしあがってゆきます。その後はご法度の武器を売ったりユダヤ人の売買に手を染めたりする悪徳商人となり、ついでに役人も手なづけて、1685年にカフェーの営業許可を獲得しました。ちなみに、フランスのパリで最初のカフェーが開かれたのは1669年で、その主もアルメニア商人(パスカルという人)でした。また、トルコ本土のイスタンブールで最初のカフェーができたのは1580年頃だといわれています。

話しを元に戻して、ディオダードが開いたウィーン最初のカフェーがあった場所は交易商人たちが集まる「バッヘンベルク館」というところでした。ここは立地としては最高の場所で、かつ情報の集結基地としても抜群のとこるでした。その結果、ウィーンのカフェーは当初からスパイや密偵と縁の深いものとなる運命をたどります。しかし、今日の優雅なウィーンのカフェーって、その黎明期にはロクでもない人間ばかりが関わっていたんですね。

ところで、冒頭にでてきたペテン師のコルツィツキーですが、その後はたった一度きりの「自称英雄行為」を売りつけるだけの人生に陥り、最後は赤貧の中で1694年に54歳の生涯を寂しく閉じたのだそうです。一方、コルツィツキーに成果を横取りされたミヒャエロヴィッツのほうは、その後得意の外国語で通訳として活躍し、つつがなく人生を送ったそうです。


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