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フィアカー(19世紀、ウィーン) |
ウィーンの町を歩いていると、よく観光客を乗せた2頭立ての馬車を見かけます。これはフィアカーと呼ばれる馬車で、そのゆったりと走る様はノスタルジックなウィーンの町と本当によくマッチしています。ところが、ウィーンの民謡に歌われるフィアカーはちょっと趣きが違いますよ。下に記したウィーン弁丸出しの歌をご覧下さい。 |
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フィアカーとは今のタクシーに相当する乗り物です。その名前の由来については、パリの辻馬車の客待ちの場所がサン・フィアクル通りだったという説のほか、その地で最初の辻馬車手配業を営んだ宿がサン・フィアクルという名だったためとか、その宿屋に聖フィアクルの絵があったためなどと、諸説紛々です。ウィーンで最初のフィアカーの営業免許が出されたのは1693年でした。これが1848年になると、680台にもなっていたそうです。当時の御者は陽気な暴走をモットーとしていて、ときには馬車だけじゃなく口まで暴走し、通行人や客に無礼千万を働くこともある始末でした。料金表はあってなきがごとしもの。1850年の料金表によると、旧市内の中なら1時間に1グルデンでそれを越すと30分につき20クロイツァーでしたが、御上りさんでも来ようものなら片っ端からぼったくりです。ただし、流暢なウィーン弁を話す客には絶対に料金を吹っかけなかったのだとか。まったく油断も隙もならない連中ですね。
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さて、のどかな時代(?)のウィーンには、もっとひどい乗り物もありました。それは、輿です。輿担ぎはゼッセルトレーガー(Sesseltraeger)と呼ばれ、遠くから見てもわかるように赤い服(ウィーンの場合)を着て、2人一組で仕事をしていました。料金は市内で14クロイツァーと安く、1日貸切でも1グルデン30クロイツァーです。しかし、安いながらも馬に負けじと、疾風のように走りまわりました。ただ、そうそういつでも客があるわけではないし、雨が降ればずっと酒場で待機でしたから、輿担ぎの1日の大半はたいてい飲酒か賭け事に費やされ、そちらのほうが本業というケースも多かったようです。おかげで、この人たちはウィーンで最下層に属すハメになりました。また、輿担ぎは時として追い剥ぎに化けることもありましたから、マトモな市民は決して近寄らなかったそうです。ついでながら、ウィーンの輿担ぎの営業許可が初めて出されたのは1703年ですが、そのときの法令では、「病人、召使い、下賎の者、およびユダヤ人を乗せてはならない」とされていました。しかし、アテにしていた普通の市民は怖くて乗れなかったわけですから、輿担ぎは1848年あたりから徐々に姿を消していきました。
しかし、ぼったくりのフィアカーあり、暴走する急行駅馬車あり、追い剥ぎまがいの駕籠屋ありと、19世紀のウィーンで交通機関を使うのは、本当に勇気のいることでした。そして、今のウィーンの市電、バス、タクシーはなんと良心的なのでしょう。やっぱり人間というものは、ダメなようでもそれなりに進歩しているのでしょうか? |
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