オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.014
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大建築家を凌いだ大工の親方と若き僧院長
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ディートマイヤー ヤーコプ・プランタウアー
B.ディートマイヤー J.プランタウアー

建築物というものは、しばしば時の権力者の力の誇示に使われることがあります。1700年ごろのオーストリアは、まさにそうした時代にありました。1697年に戦争の天才、プリンツ オイゲン公がオスマントルコを撃破。これに自信をつけた皇帝や大公たちはホーフブルク宮殿やベルヴェデーレ宮殿などを造営、貴族や聖職者たちも競って立派な建物を建ててゆきます。そして、ウィーンを中心にフィッシャー・フォン・エアラッハやルーカス・フォン・ヒルデブラントなどの大建築家が活躍する時代がはじまりました。

こうした時代を背景にして1700年5月、ウィーンの西に約80kmいったメルクの古い修道院に、弱冠30歳の若き修道院長 ベルトルト・ディートマイヤーが赴任してきました。彼は判事の息子で、イエズス会の学校ではずば抜けた成績をおさめ、その教養の深さと広い視野で早くから嘱望されていた人物です。また、この人物がやってきたメルクという町は、かつてバーベンベルク朝の居城があったという由緒あるところでした。古くは紀元4世紀にローマ人がここで砦を築き、それ以来長いこと軍事的にも、重要な拠点とされていました。

さて、その由緒ある町の修道院に来たディートマイヤーは、1701年7月に「聖堂改築」を提案し、聖職者評議会の同意を得ます。このとき評議員の人々は、「ディートマイヤーはちょっと聖堂を改装するだけなのだ」と思っていました。しかしそれは、その後延々約40年も続く修道院大改築の始まりだったのです。

ディートマイヤーの計画は大胆なものでした。まず彼の考えた修道院の完成像は、のちに「ドナウの戦艦」と呼ばれたほと巨大なものです。しかも、その建築を仰せつかったのはフィッシャー・フォン・エアラッハでもヒルデブラントではなく、当時まったく無名の大工の親方・ヤーコプ プランタウアーでした。プランタウアーは鉱夫の息子としてチロルの田舎町に生まれ、若いとき建築の親方に弟子入り、のちに独立してメルクとウィーンの間にあるザンクト・ペルテンという町で、主に民間の建物を建てていた41歳の親方です。もちろん、それまで作品らしい建築の記録などほとんどありません。もし失敗したらディートマイヤーの面目が丸潰れだったことを考えると、まったく破格の抜擢です。

プランタウアーが初めてディートマイヤーを訪れたのは1701年5月のことでした。それから1年の間、ディートマイヤーはプランタウアーを伴ってしばしは各地を旅行、この間に修道院や教会を見て回りながら、その人物をじっくり観察します。そして、1702年4月、「この男ならいける」と判断し、プランタウアーと正式に聖堂改築の契約をしました。

こうして1702年6月29日、華々しい起工式を皮切りに聖堂の改築が始まりました。そして1712年、聖堂の改築が一段落して修道院全体の大改造が始まると、何人かの修道士たちがこの改築には際限がないことに気付いて抗議文を出します。しかし、その頃にはディートマイヤーとプランタウアーの間に生まれた結びつきが、単なる契約主を請負者の関係から固い友情に発展していました。もはや修道士たちにディートマイヤーを止めることはできません。工事はさらに続けられました。次いで1726年にはプランタウアーがザンクト・ペルテンで永眠、その弟子だったヨーゼフ・ムッゲナストが仕事を引き継ぎます。

そして1736年、全長360mにもおよぶ新しいメルク修道院は、ついに完成しました。それはどの国の大建築家の作品にも劣らない、すばらしい出来です。この修道院は、のちに「ドイツ語圏におけるバロック建築の最高傑作」とさえ呼ばれました。まさに、ディートマイヤーとプランタウアーの勝利です。そしてディートマイヤーは、この完成を見届けた3年後、ウィーンで世を去りました。その棺は丁重にメルクへ送られたといいます。

しかし、ディートマイヤーは何を考えてこんなに大きな修道院を作ったのでしょうか?この人が亡くなる直前の仕事はウィーン大学の総長で、権力とはあまり関係のないものでした。それに、ディートマイヤーは当時の誰よりも知性に恵まれた人物です。とても自分の力の誇示のためにメルク修道院を建て替えたとは思えません。私が思うに、ディートマイヤーは18世紀の貴族や聖職者をからかうモニュメントを作ろうとしたのかも知れません。権力者たちが大袈裟に競って大建築家に建てさせたほどの建築物が、実は町の大工の親方でも建てられるところを見せること、これこそがディートマイヤーの狙いだったのでは?だとしたら、ディートマイヤーは天国で「してやったり」と大いに笑っていることでしょうね。

メルク修道院1 メルク修道院2
メルク修道院の正面(19世紀末の絵葉書) メルク修道院の全景


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