オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.013
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ドイツ語圏最古の大学はプラハに
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ドイツ系で最も歴史ある大学といえば、やっぱり「アルト ハイデルベルク」という小説で有名なハイデルベルク大学でしょうか。1378年の創設で、別名をヨハネス グーテンベルク大学と言います。しかし、これが現在のドイツ語圏最古の大学じゃないって知っていましたか?

そのハイデルベルクよりも古い大学は、実をいうとオーストリアにあります。1365年創立のウィーン大学がそれです。この大学、建てた人の名前を冠して、ルドルフ4世大学という別名ももっています。しかし、話しを旧ドイツ語圏にまで広げると、さらに古い大学があります。それはカレル4世大学、時は1348年、ところはなんとプラハでした。

カレル4世(ドイツ名ではカール4世)はボヘミア国王で、オーストリアのルドルフ4世とは舅と娘婿の間柄になります。出身はルクセンブルク家ですから、血筋ばドイツ系です。当時のボヘミアにはかなりのドイツ人が住んでおり、スラブ系のチェコ人とけっこう仲良く暮らしていたんですよ。第1次、第2次大戦時のドイツ人とチェコ人の不幸な歴史を見ると想像もつかないことですが。しかし、カレル4世はかなりの名君であり、今日でも「ボヘミアの父」としてチェコの人々から尊敬されています。

カレル4世の善政を象徴するもののひとつに、今もプラハの町に残る「飢えの壁」というのがあります。不作で領民が今日の食べ物にも困ったときにカレル4世が作らせた、何の必要もない壁です。この壁作りの仕事で王は人々に賃金を払い、人々はそれで食料を手にいれました。今でいう不況時の公共事業ですね。またカレル4世は文芸や学問にも大きな理解を示し、このことで、当時のドイツ語圏では最古となるプラハ大学まで設立したわけです。

カレル4世
プラハ大学を創設したカレル4世


一方、このカレル4世にやたらとライバル意識をもったのが、ハプスブルク家のルドルフ4世でした。残念ながら当時のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を一時的に失っておりましたから、ルドルフ4世は単なるオーストリア公という地位に甘んじなければなりませんでした。しかし、ルドルフ4世はふだんから次の皇帝は自分と言わんばかりの立ち振る舞いをし、またボヘミアに負けるなとばかりにあれこれ建物を建て続けました。おかげで、しまいには「Rudolf der Stifter(ルドルフ建設王)」という渾名までもらっています。ただ、悪政を敷いたという話しは聞いてません。

ルドルフ4世がカレル4世に抱いた競争心たるや、実に凄まじいものでした。最もすごいのは、1358年から1359年にかけて僧侶や神官に偽造させた、5つの古文書と2通の手紙の事件です。その偽文書はボヘミア王国に対するハプスブルク家領の厚顔な要求を正当化するものでしたが、2通の手紙にヘマがあって、ウソがバレバレでした。普通ならこれで手打ちに遭ってもおかしくないところです。しかしカレル4世はこの跳ね返りの娘婿に信じられないほど寛大で、結局放っておきました。さすがは懐の深い名君です。ルドルフ4世も、舅が自分に特別甘いことを見越して、ダメもとでこれらの偽文書を作ったフシがあります。

まあ、そんなわけでハプスブルク家の要求は結局叶えられずじまいでしたが、とりあえずルドルフ4世はいろんな建物を建てたし、ボヘミアよりは遅かったものの、ドイツよりは早く大学も作ることもできました。そして、この大学が創設された1365年の7月27日、ルドルフ4世は26歳の若さでこの世を去ります。ウィーンにできたルドツフ4世大学は、この野心いっぱいだったオーストリア公の最後の置き土産になったんですね。短いけど、いい人生だったと思います。また、最後まで自分の名を汚すことなく優れた王として存在し続けたカレル4世も立派です。大学設立競争でプラハに軍配が上がったのは、順当なセンでしょう。


ルドルフ4世の偽文書
ルドルフ4世が作らせた偽文書


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