オーストリア散策エピソード > No.128
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500年前のオーストリアの都市人口
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今のオーストリアでは、大体北海道と同じくらいの面積に約780万人(北海道の1.5倍)の人が住んでいます。また、主な都市の人口はウィーンが人口154万人でダントツですが、以下にはグラーツ25万人、リンツ21万人、ザルツブルク14万人、インスブルック12万人と続き、人口10万人以上の都市はこれで全部です。首都を除けば、それほど都市に人口が集中しているという感じじゃありませんね。

ところで、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝の地位を独占するようになった15世紀〜16世紀(フリードリヒ3世からマクシミリアン1世の時代)は、今のオーストリアにあたる場所の都市人口ってどうなっていたと思いますか?これ、数字を見るとけっこう面白いですよ。

下の地図は今から約500年前のオーストリアにあった都市の人口をちょっとピックアップしたものです。これによると、当時のウィーンの人口はたった2万人です。で、クルト・クライン氏(たぶん歴史学者でしょ)によると、1527年のオーストリアの人口は約150万人らしいとのことで、ヘルマン・ヴィースフレッカー氏は120万人じゃないかとしています。いずれにしても500年前のウィーンには、今のオーストトリアにあたる地域の人口の2%ぐらいしかいなかったことになります。昔の帝都ってけっこうショボかったんですね。ちなみに同じ時代の他国の都市を見ると、ドイツのアウグスブルクやチェコのプラハはウィーンと同じ2万人程度、ケルンは3万5千人か4万人、イタリアのヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェは6万人〜10万人でけっこう都会、そしてトルコのイスタンブール(当時はコンスタンティノープル)は10万人でした。近東や地中海から見たらオーストリアは僻地だったようです。

15世紀のオーストリアの都市

ところで、上の地図でチロルの谷の中にある(8)のシュヴァーツの人口はなんだかすごくありませんか?今のシュヴァーツの人口は1万2千人程度まで減っていて、とてもかつてウィーンと並ぶ人口を誇っていた町とは思えません。私は実際にこの町を訪れたことがありますけど、その寂れっぷりは結構トホホモノでしたよ。    

かつてのシュヴァーツが栄えていたのは、巨大な銀山のおかげでした。このあたりでは青銅器時代からかなり大規模な銅の採掘がなされていたのですが、1500年頃にはこの町の西のほうでチロル最大の鉱脈が発見され、そこには大量の銀鉱石が眠っていました。世界史の教科書に出ていた「オーストリア銀貨」の銀もここで掘られ、その近くのハル・イン・チロルという町で鋳造されていたんですよ。ちなみに、ここで最大だったファルケンシュタイン鉱山では、最盛期だった1500年〜1529年に採掘された銀が346トンで、銅も22,400トンだったそうです。が、シュヴァーツの人口のほとんどは実をいうとその山で働く鉱夫のおじさんたちでした。ファルケンシュタイン鉱山だけでも、1554年には7,400人(マクシミリアン1世の王宮があったインスブルックの3倍以上!)の鉱夫がいたんですよ。そんな人口構成もあってか、シュヴァーツが「都市」に昇格したのは鉱山の最盛期よりすっとあとの1899年でした。で、鉱夫のおじさんたちが去っていったら町は寂れ、今の有様となった次第です。    

その他で面白いところとしては、ケルンテン州(500年前はケルンテン公国)にある(4)のクラーゲンフルトがあります。ここでは1514年に大火で町が丸焼けになり、被災した住民が皇帝マクシミリアンに「いい子にするから都市の再建をお願い!」と泣きついたことがあります。で、皇帝は戦争続きで借金漬けだったにもかかわらずあっさり「OK!」と言ってあげたのですが、人口400人で家屋数もたった70軒ならせいぜい中規模マンション1棟ですね。これで都市再建というのは大袈裟ともいえます。

ついでながら、クラーゲンフルトが大火になったときのケルンテン公国の首都は(5)のサンクト・ファイトでした。しかしここの市民は悪い子にしていたので、皇帝はクラーゲンフルトの再建の折、サンクト・ファイトには一地方都市に降格というお仕置きをしました。その後、よい子のクラーゲンフルトはケルンテン公国の新しい首都(1518年)にしてもらって発展し、現在の人口は8万7千人です。一方、サンクト・ファイトはカメのような発展にとどまり、今の人口は1万4千人になっています。    

そうそう、ケルンテン州といえば(6)のフィラッハもちょっと注目です。この町は別名を「秘密の州都」ともいうのですが、それはいつまでたっても秘密のままで放置されています。上の地図だと15世紀の人口は3,000人で、当時のケルンテン公国のスーパーミニ首都だったクラーゲンフルトより1桁上です。時々地震で全滅したりするところがいけなかったんでしょうか?いえいえ、そうではありません。フィラッハがケルンテンの首都にならなかったのは、ハプスブルク帝国の領土じゃなかったからなんです。フィラッハがハプスブルク家のものになったのは、マリア・テレジアがイタリアのブリクセン司教からその町を丸ごと買い取った1759年以降のことでした。で、その頃にはさすがのクラーゲンフルトもそれなりの都市になっていたので、わざわざフィラッハを首都にすげ替える必要はありませんでした。    

それから、上の地図で(2)のクロスターノイブルク、(3)のヴィーナーノイシュタット、(7)のインスブルックはそれぞれ、バーベンブルク家、フリードリヒ3世、マクシミリアン1世の王宮があった都市です。でも、王宮があったわりに人口は少なくありませんか?実はこれにもちょっとわけがあるんですよ。手元の資料によると、これらの都市については、「王宮関係者や聖職者を除く」という注釈がしてありました。というのも、この人口推計は税金台帳を資料にして行われたものだったからです。坊さんや皇帝は税金など払いませんね。だから人口が少なめに出てしまうのです。だいたい、もしホントにここまで人口が少なかったら、シュヴァーツの鉱山のおじさんたちは銀を掘らずに、そのツルハシを武器にインスブルックの王宮でも陥落させていたかも知れませんよ。    

◆参考資料:
Oesterreichische Geschichte 1400-1522 - Die Bevoelkung/II. Einwohnerzahlen
Alois Niederstaetter, Ueberreuter, Wien
Knaurs Kulturefuehrer, Tirol - Schwaz
Droemer Knaurs, Muenchen
Oesterreich Lexikon
Verlagsgemeinschaft Oesterreich-Lexikon, Wien

◆サイト内関連ページ
エピソードNo.67: 災い転じて大出世した町
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-67.htm



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