オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.067
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災いから大出世したクラーゲンフルトの町
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クラーゲンフルト
クラーゲンフルト

オーストリア南部にあるケルンテン州の州都は、クラーゲンフルトといいます。この町は12世紀末、ケルンテン公国のヘルマン公によって最初に築かれました。しかし、湖のほとりという位置がよくなかったようで、どうもときどき洪水にやられていたようですね。それで、1250年にヘルマン公の息子ベルンハルト公はこの町の中心部を南にずらし、今日のアルテン広場(Altenplatz)のあたりに置きました。そして1252年にクラーゲンフルトは都市権を獲得。とりあえず一人前の町に昇格しました。

ちなみに、クラーゲンフルトの「フルト(Furt)」はドイツ語で岸辺という意味です。一方、クラーゲンの語源は今ひとつはっきりせず、「洪水が多くて住民が文句を言ったから」という説(klagen=文句を言う)と、湖の女神のクラーガ(Klaga)に由来するという説があります。文句説があるところをみると、よほど洪水に困り果てていたのでしょうか。

ところで、当時のケルンテン公国の首都はサンクト・ファイト・アン・デア・グランという町だったのですが、この町はクラーゲンフルトの都市権獲得の時期からさらに250年以上にもわたってこの公国の首都であり続けました。当然のことながら、サンクト・ファイトの市民はこれにだいぶ自信をもっていたようですよ。

一方、クラーゲンフルトの町はサンクト・ファイトと対照的に、その後大きな存亡の危機を迎えることになりました。1514年、大火によって町が丸焼けになってしまったのです。ヨーロッパというと石造りの家ばかりだと思われがちですが、16世紀の住まいは意外にも木造ばかりだったんですよ。それにしても水で被害を受け、火でもやられるとは、サイテーですね。やっぱりクラーゲンフルトの語源は「文句を言う岸辺」だったんでしょうか?

さて、町の自力再建は全然無理と見たクラーゲンフルトの人々は、こうなったら他力本願でいこうと、ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世に助けを求めました。「この町を差し上げますから、都市の再建をよろしく」と出たわけです。

16世紀のケルンテン公国はハプスブルク家の領土だったわけですから、そのご領地の町を住民が皇帝にくれるというのは変に感じる人もいるでしょうね。でもこれ、裏を返せば、当時都市権のある町はある程度皇帝に逆らう権利を持っていたとにもなりまよ。その証拠に、大火に遭わなかったサンクト・ファイトの市民は、当時の皇帝に全然素直じゃありませんでしたから。

マクシミリアン1世はクラーゲンフルトの住民の申し出を快く引き受けました。もちろん、市民の側もそれに恩義を感じて、皇帝に忠誠心を抱きます。そして、この忠誠心が思わぬ事態の展開を招きました。1518年にマクシミリアン1世は反抗的なサンクト・ファイトから首都の地位を剥奪。そして、なんとクラーゲンフルトを新しい首都に決めたのです。クラーゲンフルト市民にしてみれば、まさに大火の災い転じて福となすですね。こんな理由で公国の首都になった都市は、他国に例がないと思いますけど。一方のサンクト・ファイト市民は晴天の霹靂に打たれたとでもいったところでしょうか?

その後ケルンテン公国は第一次世界大戦が終わるまで形ばかりながらひとつの国として存続しましたが、サンクト・ファイトが首都に返り咲くことは二度とありませんでした。さらに、今のオーストリアのケルンテン州の州都も、クラーゲンフルトのままです。また、現在サンクト・ファイトの人口は1万人ちょっとで、クラーゲンフルトは8万7千人。あの大火から500年で、ずいぶん差がついてしまいましたね。理由はどうあれ、争いを選ぶよりはギブ・アンド・テークで宥和の道を進んだお得なようです。

なお、ケルンテン州には、クラーゲンフルトよりさらに慎ましい、もうひとつの首都があります。その町の名前はフィラッハ。医師パラケルススの生まれた町としても有名なところです。人口は5万8千人で、ケルンテン州第2の規模。一度も正式なケルンテンの首都になったことのないこの町を、人々は「心の首都」と呼んでいます。


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