オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.097
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これまた意地だったグラウン村の鐘
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南チロル・グラウン村の紋章
グラウンの紋章

上の紋章は先週の「意地で湖面に頭を出したグラウン村の塔」でお話しした南チロルのグラウンの紋章です。教会が湖に沈んだのは1950年で、この紋章が正式に認められたのはそれからずっとあとの1967年といいますから、イタリア政府はきっと相当渋々OKしたんでしょうね。

グラウンのオーストリア系住民が手加減なしでこの教会にこだわるのには、それなりにワケがありました。特に大きな愛着の対象となったのは、そこにあった鐘です。

旧グラウン教会には3つ鐘のがあり、その中でいちばん古いのは1505年に作られた鐘でした。その鐘には少し変なドイツ語(方言と古いドイツ語のミックス)で大袈裟に「Osanna hais ich, alle Wetter wais ich, Hans Selos gos mich anno domini 1505」、つまり「我が名はオサンナ。我はすべての天気を知る。ハンス・セロスが1505年に我を作れリ」と刻印してあります。そして「オサンナ」は嵐などが来ると自慢の音色で村人に危険を告げ、数百年にわたり天気の専門家として大いに活躍してきました。 400年以上も住民と苦楽を共にしてきた鐘です。そりゃ愛着も深かったでしょう。

ところが第一次世界大戦前夜の1914年になると、オーストリア=ハンガリー帝国が大砲作りのため旧グラウン教会にあった鐘を全部供出しなさいと求めてきました。そこで村人たちは悪知恵を働かせ、「オサンナ」を教会の北側の墓地に埋めて、そこに目印の墓標を立てておきます。そして敗戦のあと、人々はヤレヤレと「オサンナ」を掘り起こしてまた教会の鐘楼に架けました。しかし土に埋めてごまかせるほどアホな政府が相手でよかったですね。普通ならすぐバレてたでしょう。

さて、次はイタリア領になったあとの第二次世界大戦で、イタリア政府から「すべての鐘を供出せよ」という命令が下りました。もちろん、グラウンの村人たちはいうことを聞きません。なにしろ元々の祖国・オーストリア=ハンガリー帝国にすら「オサンナ」を出し渋った連中ですから。そこで人々はあれこれ理由をつけて、今度は鐘を3つとも供出しないで済ませようとしました。

当時教会にあった鐘は、「オサンナ」と1924年にできた鐘、そして1926年に作られた大鐘の3つです。で、まず「オサンナ」は「こりゃ骨董品だから保存しなきゃダメです」と言って供出を拒否。それを許したイタリアも、さすがは芸術の国ですね。私は感心してしまいました。で、1924年作の鐘は「第一次世界大戦の戦没者の名が刻んであるからダメ」とこれまた拒否。それを許したイタリアは、さすがカトリックの総本山を有する国です。私はまたまた感心しました。

一方、1926年作の鐘は米国に渡ったグライン村の出身者が教会に寄贈したもので、骨董品でも慰霊碑でもありませんでした。が、人々は黙って引き下がりません。「この鐘はアメリカのお金でできたのだから、イタリアの財産にはあらず!」と変な理屈をつけて、これまた供出を拒否しました。もうここまでくると完全に意地ですね。そして、敵国のお金でできた鐘を勘弁してくれたイタリア側も大したものです。

結局イタリア政府は米国由縁の鐘もあきらめました。そして喜んだ村人たちはこれを記念して、その鐘に「これはアメリカから故郷に贈られた忘れな草です」という内容の詩を添えたそうですよ。次の危機に備えて郷土の記念品に仕立て上げようという魂胆だったのかめ知れませんね。

相手が手強くなかったとはいえ、鐘を守ろうとする人々にはそれなりの覚悟が必要だったはず。そして運よく守りきれたこれらの3つ鐘は今、鐘楼から取り外されて別のどこかに保存してあります。よかったですね。ただ、グラウンのオーストリア系住民が目の仇にしていたイタリア政府にも、この件についてはいいところがたくさんあったと思います。戦争のとき骨董品の鐘や慰霊碑代わりの鐘に敬意を払ってくれる政府なんてそうそうあるものじゃないと思いますから。グラウンのオーストリア系住民には、できれば当時のイタリア政府の譲歩に対する感謝の碑も立ててほしいと思います。あまり意地ばっかり張っていると、イラクに進軍した米軍みたいに引っ込みがつかなくなりますからね。

●グラウンの紋章の画像元: International Civic Arms = 英語 ( http://www.ngw.nl/index.htm)


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