オーストリア散策シシー > アラカルトNo.09
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シシーとゾフィーの壮大な嫁姑戦争
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シシー神話のひとつに、「皇后は自由主義思想者だった」というものがあります。戦争で負傷したボヘミア兵を看護するときチェコ語で話し掛けて当局からスパイの疑いをかけられたことや、コルフ(ギリシア)の別荘に革命思想で亡命した詩人・ハイネの像を建てたことなど、確かにそれっぽい証拠のお話しはたくさん残っていますね。特に極めつけなのは、ハプスブルク家に盾つくハンガリー人の自治権獲得に、誰よりも大きな役割を果たしたということです。

しかし、これらのお話しを本当に自由思想と結びつけていいのかどうかはわかりません。たとえば、シシーはチェコ語の勉強が全然ダメだったといいますから、スパイと疑われるほどボヘミア兵とことばを交わすことはできなかったはずです。また、ハンガリーの自治獲得にはあれだけ協力的だったのに、同じハプスブルク家の支配下にあったボヘミアの自治権獲得運動はまったく無視だった点もなんだか矛盾しています。いったいこれはどういうわけなんでしょうか?

この謎を解くヒントは2つありそうです。ひとつは言わずと知れたゾフィー大公妃との確執、そしてもうひとつはシシーのファザコン的な一面です。

まず注目したいのは、シシーがハプスブルク家に嫁いできたときの宮廷の勢力図です。そこではシュヴァルツェンベルク侯爵をはじめとするボヘミア貴族たちが重用される一方で、1848年のウィーン革命のとき派手に独立運動を起こしたハンガリー貴族たちは冷遇されていました。そして、ゾフィー大公妃はかなりのハンガリー嫌い。つまり、シシーがチェコ語を全然覚えなかったのは姑の息がかかったボヘミア貴族への拒否反応で、ハンガリー語を瞬く間に覚えたのは「我が道を行く」という意思表示だったと見ることができます。

さて、ハンガリー語が流暢になったシシーは28歳のとき(1866年1月)、自分の父(マックス・ヨーゼフ公)と共通するタイプの男性に出会いました。それは穏健独立派のハンガリー貴族・アンドラーシ伯爵(42歳)です。シシーのお父さんというのは文芸に深い知識と理解をもつインテリでありながら堅苦しい宮廷作法は嫌いで、農民からチターを習ったりサーカスの人からアクロバット乗馬を教わったりする自由気ままな人でした。また物腰のスマートな伊達男なうえ大の女好きで、しかもよくモテました。おかげで村娘との間に子供ができたこともあり、妻のルードヴィカ大公女は相当苦労しましたが。一方のアンドラーシ伯爵は1848年に独立運動の失敗でゾフィー皇太后らの宮廷側から死刑の判決を受け、パリに亡命していた反逆の自由人。その後1858年に恩赦が出てハンガリーに帰り、大臣をしていました。で、この人はシシーのお父さんに負けないくらいの伊達男で、さらに豊富な人生経験と知性も兼ね備え、おまけにすごい女好き。あるときなど、シシーから「美女の窓の下に大臣が。ああ、スキャンダル!」なんてからかわれたこともあります。

シシーとアンドラーシ伯爵の仲については「恋愛説」をとる人もいます。また別な本には、「貴婦人と騎士のプラトニックラブ」という説もありました。しかし、私はそのどちらも違うだろうと思っています。本当に恋愛をしていたなら、シシーはアンドラーシの浮気に悩まされて仲良くするどころじゃなかったでしょう。また、アンドラーシが本当の騎士ならシシー以外の女性に色目を使わないはずです。たぶんシシーはアンドラーシのことを子供のとき優しく見守ってくれた父のマックス・ヨーゼフ公(シシーにはとてもいいお父さんでした)に重ね合わせていたのではないでしょうか。しかもアンドラーシと仲良くすることはハンガリー嫌いだったゾフィー大公妃への当てつけにもなりますから、まさに一石二鳥です。

こうなってくると、アンドラーシ伯爵が目指していたハンガリーの自治権獲得は、シシーとゾフィー皇太后の代理戦争ともいえそうですね。間に立つ夫のフランツ・ヨーゼフは、母親のゾフィーを立てるべきか妻のシシーを立てるべきかでさぞ難儀をしたことでしょう。で、このときのシシーにはかなり気合いが入っていました。夫である皇帝フランツ・ヨーゼフに宛てた手紙では、「ハンガリーとオーストリアが対等の立場になることを認めてくれれば、今までの気まぐれも控えてあげましょう」とまで書いていますよ。そしてフランツ・ヨーゼフがアンドラーシとの会見で譲歩を拒否すると、シシーは怒ってブダペストに居座ったまましばらくウィーンに帰らずという強攻策までとりました。で、その後国際情勢の変化もあって、結局皇帝はウィーンとブダペストの2つを首都にもつオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立を容認せざるを得なくなります。しかも、ハンガリーの初代首相にはシシーの推すアンドラーシ伯爵が就任しました。

まあそこまではいいのですが、ハンガリーが自治権を獲得したとなれば、ボヘミアだって同じことを要求したくなるというものですね。しかし、シシーはボヘミアには冷淡でした。ボヘミア貴族の親ゾフィー皇太后という態度がいけなかったのでしょう。こうしてシシー・ハンガリー連合軍はゾフィー・ボヘミア同盟軍に大勝利、その後のボヘミアは事実上ハンガリーの属国にも等しいトホホな扱いに格下げとなりました。しかし、嫁姑戦争で2つの民族の運命が変わるとは、シシーもゾフィーもちょっとやりすぎですね。

おしまいに、シシーの名誉のためにひとこと。事の発端がゾフィーや宮廷に対する反抗とはいえ、シシーはハンガリーの自治権獲得のほかにもユダヤ人への共感や精神病院の設立など、結果的にはそれまでの宮廷から見捨てられていた人々への配慮につながることをいくつもしています。自由主義者であってもなくても、その業績だけは讃えてあげたいですね。



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