オーストリア散策シシー > アラカルトNo.05
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シシーは鉄道のオーナーだった



ウィーン西駅
ウィーン西駅(1858年)

今日は帝政時代のオーストリアの鉄道の話しにしましょう。

私が調べた範囲によると、オーストリアで最初の鉄道は1829年にできたリンツ-ブートヴァイス(ボヘミア王国)の路線のようです。ウィーンやプラハじゃないところは不思議ですが。で、ウィーン最古の鉄道は1837年(1836年という人もいるし、1838年という人もいますが)にできた「フェルディナント皇帝北部鉄道」でした。ウィーン近郊のフローリッツドルフからドイチュ・ヴァグラムを結ぶ13kmを往復約1時間で走る鉄道だったそうです。当時の鉄道にはイギリスの技術が導入されていました。そのため線路の幅は1,435mmで統一され、うまい具合にのちのち国境を越える列車の運行が容易になったといいます。また、「フェルディナント皇帝北部鉄道」で最初に走った列車はイギリスのスチーブンソン社製の蒸気機関車だったといいます。

これ以降、オーストリアでは次々と新しい鉄道が設置されますが、北や東は平野が多くて楽だったものの、南は西はすごい山があるのでだいぶ苦労したようです。たとえば、チェコ方面では1839年にウィーン北駅からボヘミアのブルノに線路が延び、これが1845年にはプラハ、1847年にはポーランドの古都クラクフへと順調に延びてゆきます。東では1846年にウィーン東駅からハンガリーのジェールへ、翌1847年にはこれがショプロンへと延びてゆきました。しかし南ではわりと早い1842年にウィーン南駅からグロクニッツまで線路ができたあとゼンメリング峠のところで工事が停滞、これがミュルツツーシュラークまで延びるのには12年もかかってしまいました。

面白いことに、今のオーストリアで最も輸送量の多いウィーン西駅からリンツ、ザルツブルク方面への鉄道ができたのだけはとても遅かったようです。北方面は1830年台、東と南方面は1840年代だったのに、西方面だけは1858年ですよ。これはどうやら、ドナウ川汽船に遠慮したせいみたいですね。今の西鉄道の路線図を見ると、ドナウ川の流れと一致しています。汽船業者からは、きっと鉄道反対の大きな抵抗があったのでしょう。その人たちを懐柔するためでしょうか、この西方面の鉄道のオーナーはシシーということになりました。会社の名前も「エリザベト皇后鉄道」です。これじゃ、人々も正面切って反対しにくいですね。それとも、シシーの出身地がミュンヘンだったから、そこに向かう鉄道という意味で西鉄道を「エリザベト皇后鉄道」という名にしたのでしょうか?上の写真は創設当初の「エリザベチ皇后鉄道」の始発駅・ウィーン西駅です。彼女と縁があるせいか、今のウィーン西駅にはシシーの像もあるそうですよ。なお、上の写真のウィーン西駅は1945年に火災で焼け落ち、1954年に今の駅が新築されたそうです。新しい駅はちょっと無機質な感じですが。

ところで、「エリザベト皇后鉄道」の創設は、人や物の流れにテキメンな変化をひき起こしました。実は、これで沈んでしまった町があるんですよ。ドナウ川沿いの古い町・クレムスです。この町はオーストリア発祥の地の一部で、今から1,000年くらい前にはウィーンと競り合うほどの勢いをもっていたといいます。その後の歴史でウィーンが帝都になると、さすがに力の差は大きくなってゆきましたが、それでもワインの産地やドナウ川交通の要所としてクレムスはそれなりに栄えていました。ところがこの町はドナウ川の北側で、「エリザベト皇后鉄道」が走ったのはドナウ川の南側です。これでクレムスの町にはだんだん閑古鳥が鳴き始め、とうとうただの田舎町に落ちぶれてしまいました。ただし、これで発展が遅れたことがもとで、クレムスの町は今でも19世紀の外観をよく残しているそうですよ。そして現在ではヴァッハウ渓谷の観光の要所として、いい町ぶりを発揮しています。何が幸いするかわからないものですね。

さて、「エリザベト皇后鉄道」はその後もさらに西へと延びます。しかし、南鉄道と同様にザルツブルクの西では山々にだいぶ道を阻まれました。そこでザルツブルク-インスブルック線はアルプスの山中を通る南ルートのほかに、いったんバイエルン王国の領土を経由する北ルートも取られました。また、インブルックからスイスに抜ける路線では、アールベルクの険しい山で再び難工事に遭遇。オーストリアで最も西の町・ブレゲンツまでの線路が開通したのは1884年だったといいます。

ついでながら、オーストリアが線路の敷設に精を出していた頃、他の国でも鉄道の整備は熱心に進められていました。そして1872年になると、各国による「列車運行自国と客車直通に関する会議」が開かれ、国際列車の運転が盛んになります。かの有名な「トーマスクック社」の「国際列車時刻表」が創刊されたのはその翌年(1873年)でした。

オリエント急行が走り始めたのも、ハプスブルク時代です。ベルギーのジョルジュ・ナヘルマッケールスが「国際寝台車会社」を設立、各国の鉄道会社に働きかけて自分の制作した寝台車の国際運行をさせることに成功しました。そして1883年になると、まだ直通ではなかったというものの、最初のパリ発イスタンブール行きの豪華寝台列車が運行されます。さらに1889年にはウィーンを通って陸路のままイスタンブールへと向かう直通のオリエント急行が開通しました。

「エリザベト皇后鉄道」が国有化されたのは1884年です。したがって、直通便になったあとのオリエントエクスプレスはシシーの名を冠した鉄道を走っていません。しかし、1883年に走った最初のオリエントエクスプレスは、シシーの鉄道をしっかり通ったはずですよ。オリエントエクスプレスとシシー、なんかロマンチックな組み合わせですね。

■参考: 帝政オーストリアの主な私有鉄道のリスト
鉄道会社名 創設年
フェルディナント皇帝北部鉄道会社 1837
南鉄道会社 1858
オーストリア北西鉄道 1868
オーストリア=ハンガリー国立鉄道会社 1854
フランツ=ヨーゼフ皇帝鉄道 1866
エリザベト皇后鉄道 1858
ルドルフ皇太子鉄道 1868
ウィーン−アスパング 1881
ボヘミア北鉄道 1865
ブシュテンダード鉄道株式会社 1855
Aアウスィック−テプリッツ鉄道 1858
ドゥックス-ボーデンバッハ鉄道 1871
プラハ−デゥックス鉄道 1870
鉄道ピルゼン−プリーゼン 1872
メーレン−シュレジア中央鉄道 1872
カッシャウ−オーデンベルク鉄道 1869
ガリチア カルロヴィッツルートヴィッヒ鉄道 1858
アルブレヒト大公鉄道 1871
ランベルク-チェルノヴィッツ-ヤッシー鉄道 1868


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