オーストリア散策シシー > アラカルトNo.07
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シシーに会える場所
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今日は私の知る範囲で、シシーの像がある場所の数々をご紹介しましょう。シシーの足跡を訪ねるご旅行の参考にでもどうぞ。


フォルクスガルテンのシシー像 ウィーン西駅のシシー像 ザルツブルクのシシー像
ウィーン・王宮 ウィーン西駅 ザルツブルク

まず最初はオーストリア国内です。上の左の写真はホーフブルク宮殿の一角に立つシシーの像です。私はここを3回ほど訪れましたが、1991年7月に訪問したときは、誰かの手によってきれいに口紅が塗ってありましたよ。このシシー像の下では、夏にコンサートが開かれることもあるそうです。また、この像が置かれたのは、1907年6月4日だったといいます。シシーの面影を残すために、まだ存命中だった夫フランツ・ヨーゼフ帝が作らせたのでしょう。

上の中央にあるのは、ウィーン西駅にあるシシー像です。この駅はスイス、ドイツ、フランス方面とウィーンを結ぶ終着駅にあたります。そして、その昔シシーはここから西に向かう鉄道(エリザベト皇后西鉄道会社)のオーナーの座にありました。たぶん名目だけのオーナーで、実際の経営には参加してないと思いますが。この像の作者はハンス・ゴッサーという人で、完成したのは1860年です。その後第二次世界大戦でこのシシー像はかなり壊され、1984年になって修復されました。

上の右側の写真は1991年にザルツブルク郊外のヘルブルン宮殿の庭園の隅で撮影したシシーの像です。土台にはシシーの魂に対する同情のような詩句が書いてありました。ただ、当時この像があることはオーストリアの人々の間でもあまり知られていなかったようです。もちろん、観光ガイドにも全然載ってませんいませんでした。でも、その後この像はもっと目立つザルツブルク中央駅に移転したとのことです。個人的にはヘルブルンの片隅にひっそり立つほうが趣もありそうに思いますけど。そうそう、ウィーンのホーフブルク宮殿の中には、ザルツブルクと同じシシー像のミニチュアがありましたよ。


メランのシシー像 画像元=http://www.tangram.it/meran/sissi/sissi.htm
メラン(イタリア)

お次は第一次世界大戦前までオーストリア領だった南チロルのメラン(イタリア名ではメラーノといいます)にあるシシー像。この像にはちょっとしたエピソードがあります。メランにシシー像が作られたのは、帝政が崩壊して10年もたたない1922年のことでした。当時このあたりの住民のほとんどはオーストリア系だったのですが、イタリア政府はこれを自国の文化圏に塗り替えようとします。そして南チロルのオーストリア系住民は、「イタリア人になるか、オーストリアに移住するか」という選択を迫られました。そのときエットーレ・トロメイ(1865年生まれ)という人が、オーストリア系住民を元気付けるためにこのシシー像を作りました。死してなお人々を勇気付けるとは、シシーもなかなかの存在ですね。

ちなみに、このシシー像が建てられる前年(1921年)には、同じ南チロルのブリクセン(イタリア名はブレッサノーネ)にチロルの紋章の鷲(赤鷲)の碑が作られ、別なところにはヨハン・ハインリヒ大公の像も作られていたそうです。オーストリア系住民、かなりヤル気満々でしたね。


トリエステのシシー像 モントルーのシシー像
トリエステ(イタリア) モントルー(スイス)

イタリアにはもうひとつのシシー像があります。それは左上にあるトリエステの像。これは1912年に建てられましたから、まだ皇室は健在で、トリエステもオーストリアの軍港の町として存在した時代のものですね。そういえば明治時代に日本にやってきたオーストリアの軍艦も「エリザベト皇后号」という名で、この港から出航してきましたよ。この船、その後中国の青島で第一次世界大戦の果てに海の藻屑と消え、ジュネーブで暗殺されたシシーと似た運命をとどりましたが。

この像のある場所は、トリエステ南駅の前の自由広場(Piazza Liberta)です。トリエステは元来イタリア領の町で、その後オーストリアに領有されたのですが、第一次大戦後オーストリア勢力を駆逐したあとも、土地の人はシシー像を壊さなかったんですね。で、1997年9月5日に今の場所に戻されたというわけです。

一方、右上の写真はスイス・モントルーのリアン城(Riant-Chateau)の公園にあるものです。シシーがこの近くにしばしば滞在していたことを縁に像ができたそうです。この像はシシー亡きあとクララン(Clarens)に住んでいた英国のセイドマン(Sademan)という女性(たぶん貴族)の呼びかけで作られることになり、1900年に同じスイスのルガノ在住も彫刻家アントニオ・キアットーネ(Antonio Chiattone)が製作を担当、1902年5月20日にここに置かれたそうです。

また、シシーはこの町で「エデン・オー・ラック(Eden au Lac)といういうホテルにも泊まっていたそうです。以前私が泊まったチューリヒのエデン・オー・ラックと経営者は同じと思いますけど。もちろん、どちらも5つ星です。


マデイラのシシー像
マデイラ(ポルトガル)

おしまいは、ちょっと間の抜けたシイシー像です。ところはポルトガルのマデイラのカジノ・リゾート・パークホテル(Casino-Resort-Parkhotel)の庭。5つ星のホテルとはいえ、カジノ付きとはトホホですが。シシーは1860年〜1861年にこの地でQuinta Vigia(クィント ヴィギア? クィントヴィジア?クィントヴィヒア?− ポルトガル語は読めません)というところに滞在し、その風景を褒めていたそうです。それを記念して、と称しながら、実は客寄せ目当てで1999年に像を建てられてしまいました。なんだか皇后というよりも踊り子という感じの像ですが。このシシー像を作ったのはLagoa Henriquez(たぶんラゴア エンリゲスと読みます)という人で、これでもポルトガル第一の彫刻家なのだそうです。

ところで、シシーはすごくハンガリー贔屓だったのに、ハンガリーのシシー像はすぐに見つかりませんでした。で、「エリザベト通り」とか「エリザベト橋」なんていう場所があるくらいだから、像の2つや3つあってもおかしくないと思っていたとろ、掲示板のほうで「エリザベート橋の近くの公演にシシーの像あり」との情報をいただきました。また、私のほうもその後同国に別なシシー像があることを発見しております。これらについては「シシーに会える場所」の第2弾でご報告しますね。

また、チェコとスロヴァキア(旧ボヘミア)にはシシーの像ではなく、記念碑のほうがありました。これはオーストリア・ハンガリー二重帝国をオーストリア・ハンガリー・ボヘミア三重帝国にしなかったことへの当てつけ?だとしたらちょっと笑えます。

◆ヘルブルンにあったシシー像がザルツブルク中央駅に移転したこと、およびブダペストのエリザベート橋の近くにシシー像があることは2005年7月14日に牧野宣彦様から教えていただきました。貴重な情報に心よりお礼申し上げます。



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