オーストリア散策 > シシー > アラカルトNo.01 |
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シシーコーナー、最初はやっぱり年表から始めます。ということでまずは市販の本の年表を見てみたんですが、どれも「何ですか、これは?」という状態でした。見合い、結婚、出産、子供の結婚、孫の誕生、親の死しか並んでないのですから。もっとほかにいろいろあるでしょう。ということで、だいぶ私のほうであれこれ付け加えをしました。この年表には、まだ加筆すべきことがたくさんあります。それらは今後も少しづつゆっくり書き足していくつもりです。 |
生前の年表 | |
1837 | 12月24日、ミュンヘンのヴィッテルスバッハ家に生まれる。父は伊達男のフランツ=マクシミリアン大公、母はバイエルン王女ながら地味地味のルドヴィカ。この家庭は堅いことを言わない開放的なところで、特に父はシシーに甘かった。 |
1846 | ルイーズ・ヴェルフェン伯爵夫人がシシーの家庭教師に就く。しかし、父のマクシミリアン大公が勝手気ままにシシーを遊びに連れ出すので教育は進まず。 |
1848 | 6月、母ルードヴィカはシシーたちを伴い、革命騒ぎでウィーンからインスブルックの宮廷に避難中のゾフィー大公女たちを訪ねる。このとき、フランツ・ヨーゼフ(当時18歳)の弟カール・ルートヴィヒ(当時15歳)がシシー(当時10歳)に一目惚れし、野の花や果物、手紙、指輪などを贈る。が、シシーはまだ子供だったので、反応は無邪気。 |
1851 | シシーが13歳のとき、淡い初恋の少年リヒャルトが亡くなる。悲しんだシシーは、「さいは投げられた ああ、リヒャルトはもはやいない 葬送の鐘が鳴り響く、主よ 私を憐れみ給え!」という詩を書く。 |
1853 | 4月、二度目の恋心を抱いていた青年(友人の弟)が肺炎で亡くなる。シシーは「ああ、なぜ私に死がないのか 君とともに天にありたい・・・」という詩を書く。 |
1853 | 8月、姉ヘレーネとハプスブルク家の皇帝フランツ=ヨーゼフ(当時23歳)のお見合いに同行して、オーストリアのバートイシュルへ。ここでフランツ=ヨゼフに見初められ、8月18日に婚約。 なお、この婚約のあとシシーはは急遽「皇后教育」を受けるが、その中で「オーストリア史」を講義したのは、ハンガリーの歴史家ヨハン・マイラート伯爵だった。 |
1854 | 4月24日、ウィーンのアウグスチーナ教会でフランツ=ヨーゼフとの結婚式。なお、フランツ・ヨーゼフの母であるゾフィー大公女はこの結婚に反対で、出来のよい姉のヘレーネを望んでいた。しかし親孝行なはずのフランツ・ヨーゼフが今回ばかりは自分の意志を通したのでしぶしぶ承諾。 |
1855 | 長女が誕生するも、姑のゾフィーに即取り上げられる。また、この子は姑にちなんでゾフィーと名付けられてしまう。 |
1856 | 次女ギーセラが生まれるが、またも自分で育てることは許されず。見かねたフランツ=ヨーゼフは、ケルンテンとシュタイアーマルクの視察と称して、シシーを宮廷の外に連れ出す。 |
1857 | ハンガリーを初訪問、現地の貴族らから大歓迎を受ける、シシーもハンガリー贔屓に。ただ、この滞在中にの5月29日、長女ゾフィーが夭折。 |
1858 | 皇太子ルドルフが生まれる。このときも自分で育てることは許されず。 |
1858 | 今のウィーン西駅から西方のリンツ、ザルツブルク方面に向かう鉄道が開業。なお、この鉄道は「エリザベート皇后鉄道」と銘名されている。 |
1860 | 姑や宮廷との確執と夫の浮気などによる重度の欝状態から病気に。大西洋の孤島、マディラ島に療養で出かけて転地療養を図る。 |
1861 | ウィーンに帰って健康状態が悪化。再び転地療養のため、今度はギリシアのコルフ島へ。 |
1862 | 病気が快復、少し逞しくなって8月18日ウィーンに戻る。 |
1863 | マデイラに滞在したシシーは美男子のイムレ・フニャディ伯爵からハンガリー語の個人教授を受け始めたが、2人の間柄を危惧した宮廷の差し金で、伯爵は直ちにウィーンへ呼び戻される。 |
1863 | シシー、正式にハンガリー語を習い始める。彼女は皇帝一族の必修語だったチェコ語で挫折したが、今回は周囲の予想に反してたちまち進歩。その真の功績者は、後日シシーに仕えたハンガリー女性のイーダ・フェレンツィと考えられている。 |
1864 | イーダ・フェレンツィが側近としてシシーに仕える。イーダはその後シシーが暗殺されるまでの34年間、皇后のあらゆるプライバシーをバックアップする不可欠の存在となった。 |
1864 | シシー、バートイシュルで成人した従兄弟のバイエルン王ルートヴィヒ2世に出会う。2人は心に共通するものを感じ、親密な友人となる。 |
1866 | 1月、ハンガリーの独立派貴族アンドラーシ伯爵(42歳、かなりのプレイボーイ)がウィーンの王宮でシシーに初めて謁見。両者は惹きあうものを感じ、これが独立派と宮廷を妥協へと導くことに。 |
1867 | オーストリア=ハンガリー二重王国が成立し、ブダペストで戴冠式。シシーはその立役者のひとりだった。アンドラーシ伯爵も新王国の要職に。 |
1867 | 戴冠の記念として、ハンガリーがシシーとフランツ・ヨーゼフに、ブダペスト郊外のゲデレー宮殿を贈る。この宮殿はシシーお気に入りだったが、財政困難のため皇帝が買い取れずにいた。ハンガリー側はこれを察して寄贈。 |
1867 | またもやウィーンを抜け出し、ハンガリーのブダペスト近郊にあるゲデレ城へ。ここで馬術に磨きをかける。 |
1868 | 4月、三女マリー=ヴァレリーがハンガリーで生まれる。この子はシシーにとって、初めて自分で育てることを許された子に。ブダペストでの三女誕生に、ハンガリーは大喜び、ウィーンは苦虫。 |
1868 | このころ、シシーは欧州全土で最も美しい女性のひとりということが広く認められ、シシーを一目見ようとする野次馬が増える。 |
1869 | 5月に新しい王立オペラ座が完成。しかし、シシーはこけら落としへの臨席を直前でキャンセル。せっかくシシー好みの内装をしていたのにと建築家たちはがっかり。なお、このオペラ座を手掛けた建築家のエドゥアルト・ファン・ミュルの自殺とシシーの冷たい態度は無関係とされる。 |
1872 | 天敵だった姑のゾフィー大公女が67歳で没する。 |
1873 | 次女ギーセラ、バイエルン王子レオポルトと結婚。この年ウィーンで万博があるも、シシーは記念行事やパーティーを敬遠、ふだん以上にウィーから離れた。ただ、日本館の宮大工には興味深々で、おみやげに鉋くずをもらってくる。 |
1874 | 狩の馬術を身につけるべく、イギリスに行く。ただ、国民からはヒンシュクを受けた。また、英国のヴィクトリア女王は当地でのシシーの気ままな行動に眉をしかめる。 |
1876 | 馬術の練習で再びイギリスへ。今度は障害物競走などの特訓を受け、ついに欧州女流騎手を代表する名手となる。ただし、馬術の出費はハンパじゃなく、皇室の財政はますます悪化。 |
1879 | うるさい英国王室にうんざりし、今度はアイルランドで乗馬の訓練。翌年も出かける。 |
1881 | 長男ルドルフ、ベルギーのシュテファニー王女と結婚。シシーはこれが政略結婚だったので気が進まず。 |
1883 | 夏に女優カタリーナ・シュラットが皇帝フランツ=ヨーゼフを訪れる。夫を元気つけるため、シシーがさしがねした。その後皇帝とカタリーナは仲良しに。 |
1886 | ウィーンのラインツの森に「ヘルメスヴィラ」が完成。 |
1886 | 従兄弟のバイルン王ルートヴィヒ2世、バイエルンのシュタインベルク湖で謎の溺死。このころシシーの欝状態も悪化。 |
1888 | シシーの父、マクシミリアン=ヨーゼフ公が「楽しい人生だった」と言って80歳の生涯を閉じる。 |
1889 | 長男ルドルフ、マイヤーリンクでマリー=ヴェツラと心中(他殺説もあり)。以後、シシーは常に黒の喪服を身につける。 |
1890 | 三女マリー=ヴァレリー、トスカーナ大公フランツ=サルヴァトールと結婚。 |
1892 | シシーの母ルドヴィカ死去。享年84歳。犬好きはシシーとの共通点だった。 |
1898 | 9月10日、シシーはジュネーヴで通り魔に刺され、死亡。アナーキストに暗殺されたと書いてる本もあるが、私の認識では無名の通り魔。 |
没後の年表 | |
1903 | ハンガリーの首都・ブダペストに「エリザベート橋」(着工はシシーの生前の1897年、設計者はアウレル・チェケリウス)が完成。なお、この橋は1945年に第二次世界大戦でドイツ軍が撤退するとき爆破され、1963年にパル・サヴォリの設計で再建されている。 |
1907 | ウィーンのホーフブルク宮殿の敷地にあるフォルクスガルテンにシシーの像が建てられる。 |
1916 | シシーの夫だった皇帝フランツ=ヨーゼフ、死去。 |
1918 | オーストリア=ハンガリー帝国、第一世界大戦に敗戦して、解体へ。また、同年11月16日にはハンガリーが独立、のちに同国では英雄広場にあった皇帝フランツ=ヨーゼフの銅像が取り除かれたが、ハンガリー国民に人気のあったシシーにちなんだ「エリザベート橋」はその名称を維持(社会主義国になったあとも)した。 |
1955 | 映画「プリンセス・シシー」が制作され、大ヒット。主演のシシー役はロミー・シュナイダー(ウィーン生まれ、1938.9.23-1982.5.29)。 |
1992 | ウィーンでミュージカル「エリザベート」が初演され、大当たりする。以後、他の国でも上演。ドイツ語のミュージカルとしては過去最大の人気に。なお、日本では宝塚歌劇団が1996年に「エリザベート」を初演している。 |
1998 | シシーの没後100周年を記念して金貨が発行される。金貨の表面にはシシーの肖像、そして裏面には映画でシシー役を演じた女優ロミー・シュナイダーの顔が・・・。 |
2004 | 4月24日、ウィーンのホーフブルク宮殿内にシシー博物館ができる。ちなみに、この日はシシーとフランツ・ヨーゼフの結婚150周年記念日にあたる。 |
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