オーストリア散策エピソード > No.152
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大司教の私利私欲で美しくなった町
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ヴォルフ・ディートリヒ
ヴォルフ・ディートリヒ

ザルツブルクは「北のローマ」と称されることがあります。ローマというと今はけっこう小汚い感じですが、昔はザルツブルクのほうがもっと小汚かったので、これは誉めことばです。しかしこの町、いったい誰がこんなにきれいにしたんでしょう?    

実をいうと、ザルツブルクを美しくしたその人というのはけっこう悪名高き人でした。その名はヴォルフ・ディートリ・フォン・ライテナウ(1559-1617)といいます。出身は現在のオーストリア西部にあるボーデン湖の近くの貴族の家です。    

ヴォルフ・デートリヒは17歳だった1576年に、法王長付きの役員としてザルツブルクからローマに派遣されていた叔父のマルクス・ズィティクス・フォン・ホーエンエムス(のちのザルツブルク大司教)による勧めでローマにある保守派色の強い学寮に行きました。そして、ローマでのヴォルフ・ディートリヒは豪華な建築物や遺跡の数々に感嘆する一方、農民が明日の食べ物にも困るというのに美食を貪ったり禁欲など無視の放蕩生活を送ったりする聖職者たちの腐敗した生活を目にして、「聖職者の毎日はなんとすばらしいのだろう!」と思いました。    

余談ですが、ヴォルフ・ディートリヒよりもっと前の1510年にはドイツからマルティン・ルターがローマに来ています。で、その時も聖職者たちはロクでもない生活をしていたのですが、ルターはヴォフ・ディートリヒみたいに喜ぶどころか、「こりゃけしからん!」と言ってむしろ怒っていました。そしてこの人は宗教改革運動に突入。同じものを見ても人によって反応はえらい違いですね。    

さて、1587年になると豪華絢爛なローマでウヒョヒョ三昧の生活をエンジョイしてきたヴォルフ・ディートリヒは、わずか28歳でザルツブルク大司教に選ばれました。頭脳明晰な人だったので、当時の規定よりも2年早く大司教に就任です。が、アルプスの中にあるザルツブルクはヴォルフ・ディートリヒにとってウンコな田舎町以外の何モノでもありませんでした。ザルツブルクの財政自体は豊富な岩塩の収入と金鉱の発見で裕福だったのですが、代々の大司教たちはちょっとした賄賂や美食以外にこれといってお金の使い道を見い出せなかったようで、町のほうは地味だったのです。    

そこでヴォルフ・ディートリヒは、「こうなったら権力を駆使してこの町を無理やりに作り変えよう!」と考えました。そのやり方はあまりにも強引だったので、非難の声もいっぱいでしたが。例えばザルツブルク大聖堂などは1598年に火事で燃え落ちて建て替えになったのですが、その火事はヴォルフ・ディートリヒの放火じゃないのかという噂が起こっています。が、その真偽がどうだったにせよ、結局大聖堂の建て替えはヴォルフ・ディートリヒの意図したイタリア風の様式で着工(ただしヴォルフ・デートリヒ失脚後の1614年)されました。    

また、映画のサウンド・オブ・ミュージックにも出た美しいミラベル宮殿(今の姿は火災で焼け落ちたあと1818年に当初とやや違う設計で再建されたもの)も、その前身はヴォルフ・ディートリヒが1606年に建ててサロメ・アルト(1568-1633)という女性に贈った宮殿です。で、この宮殿建設に至るプロセスも大変に強引。まずヴォルフ・ディートリヒはヴェルス(オーストリア中部の町)の商人の娘だった美人のサロメ・アルトに胸キュンとなります。で、歴史の記述によるとヴォルフ・ディートリヒはこの女性を略奪同然(※注1)にしてザルツブルクに連れてきたのだとか。しかもこの人、身分の違いすぎを補うためにサロメ・アルトを伯爵級の貴族に仕立てています。しかしどんなに放蕩でも当時のカトリックの聖職者は一生独身を通すのが決まりだったので、ヴォルフ・ディートリヒはサロメ・アルトと正式に結婚ができません。が、そんなことに怯まないヴォルフ・ディートリヒは悪知恵を働かせ、表向きはサロメ・アルトを妾ということにしておきました。妾なら聖職者は日常茶飯事で囲っていますから、誰も文句は言えません。で、その後ヴォルフ・ディートリヒとサロメ・アルトの間には15人の子供(そのうち5人は夭折)が生まれ、みんなで過ごすにはミラベル宮殿でも作ろうかということになりました。    

ヴォルフ・ディートリヒはこのほかにも教会や修道院から噴水や馬洗い場まで、いろいろなものを作っています。で、豊富だった資金が薄くなってくれば次々と新税を発明して住民を締め上げ、反抗勢力が出ると処刑などで応戦。このままいったらザルツブルクは政治も財政も崩壊しかねなくなってきました。そこで1611年にはとうとうクーデターが発生。ヴォルフ・ディートリヒは失脚してイタリアに逃亡する途中、今のオーストリア南部のケルンテン州で捕まります。そしてホーエン・ザルツブルク城に幽閉され、その6年後にこの世を去りました。まあ、あの専制ぶりと散財のひどさに加えて30年戦争(1618-1648)が間近に迫っていたことを考えれば、この辺で逮捕のというのはちょうどいいタイミングだったと思いますけど。もっと早ければザルツブルクは小汚い町のままだったし、もっと遅れて名君パリス・ロドローン大司教の登場が間に合わなければこの町は廃墟同然になる可能性もあったのですから。    

以上のように、ヴォルフ・ディートヒの治世はお世辞にも善政のかけらすらあるとはいえるものじゃありませんでした。しかし、一度始まってしまった「きれいな町作り」は、のちの時代にも延々と続きました。いいか悪いかは別として、もしヴォルフ・ディートリヒがいなければザルツブルクが今ほど美しくならなかったことは確かでしょうね。これ、なんとも評し難いので、今日のところは「きれいな町並みの背景にトホホな歴史があるとはさすがオーストリア!」とでもまとめておきましょう。    

※注1)ヴォルフ・ディートリヒの「サロメ・アルトを略奪同然に」というのは公正な記述なのかどうか分かりません。というのも、ヴォルフ・ディートリヒはサロメ・アルトをとても大切にしていたし、サロメ・アルトもそれをイヤがるどころか、幸せだったと述べていますから。「略奪」というのはサロメ・アルトの親の立場からみた表現であり、より正確には「駆け落ち」だったんじゃないでしょうか?    

◆画像元:
Wikipedia - Wolf Dietrich von Reitenau
http://de.wikipedia.org/wiki/Wolf_Dietrich_von_Raitenau

◆参考資料:
ザルツブルク 祝祭都市の光と影 《狼》猊下
池内修著、音楽之友社 (1988/4/25)
Wikipedia - Wolf Dietrich von Reitenau
http://de.wikipedia.org/wiki/Wolf_Dietrich_von_Raitenau
salzburg-rundgang.at - Geboren und Gelebt: Salome Alt
http://www.salzburg-rundgang.at/geboren_gelebt/salome_alt/
Bedaekers Allianz Reisefuehrer, Oesterreich - Salzburg
Karl Bedaekers GmbH, 1988, Ostfilden-Kemnat bei Stuttgart Deutschland
Wikipedia - martin Luther
http://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Luther


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