オーストリア散策エピソード > No.150
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イモ司祭、そしてイモ戦争
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オーストリア料理といえばじゃがいもが欠かせません。しかし、日本で普通の人たちが毎日白い米を食べられるようになったのがそう遠い過去でなかったのと同様、オーストリアでじゃがいもを食べることが広まったものそれほど昔というわけではなかったんですよ。

じゃがいもの原産地は南米のペルーとされ、これを欧州にもたらしたのは新大陸の発見から帰ってきたコロンブス(1500年代中頃)でした。が、当初のじゃがいもは高価な観賞用の植物として、王侯貴族や聖職者の庭に植えられるだけでした。そして、いつまで経ってもマトモな食用になる気配は見られず。それどころか、これを食べたら天罰が下るとか疫病になるという迷信まで生まれる始末でした。

ちなみに、じゃがいもはドイツ語でKartoffel(カルトッフェル)と言いますが、別名をErdapfel(エルトアプフェル)とも言い、その意味は「大地のリンゴ」。そして「リンゴ」といえばアダムとイブが楽園を追放っされる原因になった果物ですね。「じゃがいもを食べたら天罰が当たる」という迷信は、どうやらここから生まれていたようです。

また、じゃがいもの発芽部分にはソラニンなどの毒素があって、芽の状態によっては食べると中毒症状になることも。今なら誰でも知っていることです。しかし昔の欧州の人々はそんなことなど知りませんでしたから、肝試しに食べてみた人たちが次々と腹痛になるのを見たら、疫病の元だと誤解するのも致し方ありません。

さて、それではオーストリアにじゃがいもが主食として定着し始めたのはいつでしょうか?実はこれ、欧州にじゃがいもが伝わってから約200年も経った18世紀後半のことでした。1761年、今のニーダーエスタライヒ州にあるプリンツェンドルフ(場所は下の地図を参照)の教会にオランダからヨハン・エーベルハルト・ユングブルート(Johann Eberhard Jungblut 1720-1795)という司祭が赴任、このときユングブルートは故国からもってきたじゃがいもを観賞用じゃなく食用で植えます。そしてこれがニーダーエスタライヒ全体に広がってゆき、おかげで他の農作物が不作のとき人々が飢饉から救われました。そして19世紀になるとじゃがいもはオーストリア=ハンガリー帝国全体でも欠くことのできない主食になりました。

プリンツェンドルフの位置
プリンツェンドルフの位置

ちなみに、その後のユングブルートには敬意をこめて「イモ司祭」というあだ名が付けられました。世界広しといえども、「イモ」呼ばわりが褒めことばになる人はこの人ぐらいでしょうね。また、1834年にはオーストリアの食用じゃがいも栽培発祥の地となったプリンツェンドルフの聖堂区教会に「じゃがいも記念碑」というのまで建てられています。マニアックな歴史探訪の旅にはもってこいの旧跡ですね、これ。

そうそう、オーストリアの天敵だったプロイセンでじゃがいもが食用に広まったのも18世紀後半です。が、その広がり方はオーストリアとちょっと違います。プロイセンでは国王フリードリヒ2世が自ら飢饉に備えてじゃがいもを植えるべきと判断し、まずは人前でイモを口にしてみせるというパフォーマンスをして「食べても大丈夫」と証明。次にベルリンの王宮の庭にじゃがいもを植え、これをさぞかし貴重品とみせかけるために番兵を置いたといいます。で、その番兵は眼光鋭く庭のじゃがいもを守るフリをして時々手抜きのスキを見せ、わざと農民にそれを盗ませました。おかげでプロイセンではオーストリアに負けないぐらいじゃがいもが広まったといいます。ドロボーに励む人がいっぱいいる国でよかったですね。

とはいえ、ちょっと悪さをしただけで獄門のリスクがあった時代に王宮からじゃがいもを盗む根性のある農民がそんなに多数いたとは思えません。「じゃがいも泥棒促進作戦」というのは作り話しの可能性が高いですね。フランスにも同じような言い伝えがありますから、実はフリードリヒ2世こそ、その話しを盗んできたんじゃないでしょうか?こうなると二重にトホホですけど。

ところで、18世紀後半のオーストリアとプロイセンがじゃがいも栽培に励んだことは、のちに大変奇妙な事態をもたらしました。それは、2年もかけたのに出征した兵士の95%が生きて帰ってきたというバイエルン継承戦争です。いったいどういう戦い方をしたらこんなに安全な戦争ができるのでしょう?

実をいうとこの戦争のとき、オーストリアとプロイセンの兵士たちは敵の兵士よりも相手のじゃがいも畑のほうを熱心に攻撃していました。つまり、人じゃなくイモがたくさん戦死していたのです。で、あまりにイモ畑ばかり狙うものだから、この戦争は別名を「イモ戦争」といいます。まあ、人命は一度失われたら取り戻せませんが、イモ畑ならあとでもう一度耕せばどうにかなります。流血の死闘を繰り広げるよりは、イモ畑の攻撃合戦のほうがまだマシでしょう。それにしても、じゃがいもは飢饉だけじゃなく、戦争からも人の命を救っていたのですね。    

◆参考資料:
Wikipedia - ジャガイモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2
ドイツ*じゃがいも料理
http://www.jcc-regio.com/doitsupotato/rekishi_dhiromari.html
k-takahashi's雑記 - ジャガイモの世界史
http://d.hatena.ne.jp/k-takahashi/20080318/1205849284
Geschichte Nieder Oeseterreich - Personen Lexikon: Johann Eberhard Jungblut
http://geschichte.landesmuseum.net/index.asp?contenturl=http://geschichte.landesmuseum.net/personen/personendetail.asp___id=2145905483
Wikipedia - War of Bavarin Succession
http://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Bavarian_Succession
Wikipedia - Erdaepfel
http://aeiou.iicm.tugraz.at/aeiou.encyclop.e/e712473.htm
Jungblutdenkmal in Prinzendorf
http://www.hauskirchen-online.com/jungblut.htm
Die Pfarrkirche Prinzendorf
http://www.hauskirchen-online.com/Kirche%20Pr.htm
薬学研究ファイル - 毒: 第2章 天然毒
http://pharmacy.client.jp/poison2.html
Wikipedia - Hauskirchen
http://de.wikipedia.org/wiki/Hauskirchen


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