オーストリア散策エピソード > No.138
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南チロルの石像・銅像建立合戦
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ボーツェンのヴフォーゲルヴェイデ像
フォーゲルヴェイデの像(ボーツェン)

イタリア北部・南チロル(イタリア名ではアルト・アディージョ)のボーツェン(イタリア名ではボルザーノ)には、ドイツ文学史を語る上で最も重要な1人といえるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170-1228)の石像があります。この人はバーベンベルク家の時代に活躍したウィーンの宮廷詩人で、その詩は中高ドイツ語(中世の高地ドイツ語という意味)といわれるドイツ語の古文で書かれていました。ちなみに、ドイツ系の人々の民族的文学である「ニーベルンゲンの歌」も、中高ドイツ語で書かれているんですよ。つまりフォーゲルヴァイデの石像には、ドイツ系民族の魂の象徴という一面があるのです。しかし、そういう人の石像がイタリアにあるというのはちょっと変ですね。こういうときは必ずどこかに「トホホの香り」があるものです。

実を言うと、南チロルは帝政時代までオーストリア領でした。これがイタリア領になったのは第一次世界大戦のあとです。が、南チロルの北部は元々ドイツ語圏、南部はイタリア語圏で、この両グループの仲は昔からあまりよろしいとは言えませんでした。しかも困ったことに、19世紀には民族主義というのが台頭。そして、ボーツェンではドイツ民族魂に燃えるハインリヒ・ナッター(1844-1892)という人がフォーゲルヴァイデの石像を作りました。しかもドイツ系住民はダメ押しとして、「南部に住むイタリア野郎ども、しっかり見張ってやるぞ!」という意味を込め、その石像を南向きに立てるという始末でした。    

もっとも、ヘタに喧嘩を売って泥沼の争いを招いては、ロクでもないことになり兼ねませんね。ちゃんと逃げ道も作っておかないと。そこでドイツ系住民はちょっとした悪知恵を働かせ、「ボーツェンはフォーゲルヴァイデの生まれ故郷。だからここに像を建てた。」という言い訳を準備していました。ちょうどフォーゲルヴァイデの出身地が不明だったのをいいことに、証拠不十分のまま南チロル出身に仕立て上げていたのです。ついでにいうと、フォールヴァイデの出身地はその後も不明で、学会ではとりあえずこのインチキ臭い「ボーツェン出身説」がそのまま今でも放置されています。    

一方、イタリア系住民のほうも負けてはいません。1886年になると、ボーツェンの南にあるトレント(ドイツ名はトリエント)では、「目には目を、文学には文学を」ということで、下の写真にあるダンテ(1265-1321)の石像が建てられました。しかも、「このドイツ野郎!」という意味を込めて、ご丁寧に北向きで。しかし、ダンテはフィレンツェに生まれ、ラヴェンナで亡くなった人ですから、南チロルには何の関係もありませんね。気持ちはわかりますが、これってかなりムチャクチャですよ。

トレントのダンテ像
北向きに立つダンテの像(トレント)

さて、ダンテの石像に睨まれたドイツ系住民は当然のことながら、かなりカチンときました。そしてハンリヒ・ナッターは新たな像の制作を開始します。こうして1892年になると、今度はチロルの首都インスブルックにアンドレアス・ホーファーの立派な銅像(下の写真)ができました。アンドレアス・ホーファーという人は、ナポレオンの息のかかったイタリア勢を相手に奮闘したチロルの大英雄です。でも、本人が亡くなってから83年もしてから新しい銅像を作るなんて、やっぱりどう見てもイタリア系住民への当て付けに決まっていますね。余談ですが、この像を作ったハイリヒ・ナッターの出身地は当HPのエピソードNo.096で紹介した「反イタリア魂の教会塔」がある「グラウン村」です。亡くなるその年までしつこく反イタリアの銅像作りに励んでいたナッターを見ると、まさに「この村にしてこの人あり」という気がします。

インスブルックのアンドレアスホーファー像
アンドレアス・ホーファーの像(インスブルック)

なお、イタリア人のほうも意地になって今度はアンドレアス・ホーファーを処刑したナポレオンの銅像でも建てるのかと思ったら、さすがにそこまでヒマではなかったようです。たぶんアホらしくなってきたのでしょう。とはいえ、お互いに大砲をぶっ放す戦いよりは、平和に像の建立競争をやっていたほうが、ハタから見ても楽しくていいと思います。それに、普通の戦いなら町は瓦礫の山になるのが関の山ですが、今回の南チロルのドイツ系住民とイタリア系住民の戦いは、のちの世にステキな観光スポットをたくさんプレゼントしています。こういう戦いならいくらやってもいいでしょう。    

おしまいにその後の南チロルですが、ここは第一次世界大戦でオーストリアが敗北したあと、北部のドイツ系地域もろともにイタリアに併合され、そのあとムッソリーニ政権によってけっこうヘビーなイタリア化が始まり、ボーツェンのフォーゲルヴァイデ像も目障りだということで一度撤去されました。これが今の場所に戻ってきたのはなんと1980年代になってからなのだとか。一方、ドイツ系住民はというと、またまた懲りもせず1922年、メラン(イタリア名はメラーノ)にシシーの像を建てています。もちろん、「シシーが訪れた記念の町だから」という言い訳つきで。しかし、これはどうもあまりよい選択じゃなかったかも知れませんよ。というのも、シシーは南チロルと反対にいつもオーストリアから離れたがったいたうえ、最後はジュネーヴで暗殺(1898年)されて、二度と生きてオーストリアに帰って来ませんでしたから。そして南チロルもシシーの像が立ってからますますオーストリアに復帰する見込みはなくなり、未だにイタリア領のまま。おまけにイタリアはオーストリアより税金が安い(たぶん脱税もしやすい)ことから、南チロルのドイツ系住民の中には、このまま郷土がオーストリアに復帰しないことを心密かに望む人もけっこういるというお話しさえあります。やっぱりここでも、「不思議あるところにトホホあり」でしたね。

◆参考資料:
三つのチロル - ボーツェンの道案内
今井敦著、新風舎
Wikipedia - Walter von der Vogelweide
http://de.wikipedia.org/wiki/Walther_von_der_Vogelweide
NNDB - Walter von der Vogelweide
http://www.nndb.com/people/091/000103779/
Wikipedia - Trento
http://wikipedia.kataweb.it/wiki/Trento
Wikipedia - Heinrich Natter
http://de.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Natter
Tiroler Bildungsservice - Bergisel
http://www.bildungsservice.at/innsbruck/sehensw1/bergisel_01.htm
Wikipedia - Dante Alighieri
http://en.wikipedia.org/wiki/Dante_Alighieri

◆画像元:
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの像: Wikipedia - Walter von der Vogelweide
http://de.wikipedia.org/wiki/Walther_von_der_Vogelweide
ダンテの像: Wikipedia - Dante Alighieri
http://en.wikipedia.org/wiki/Dante_Alighieri
アンドレアス・ホーファーの像: Tiroler Bildungsservice - Bergisel
http://www.bildungsservice.at/innsbruck/sehensw1/bergisel_01.htm



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