オーストリア散策エピソード > No.136
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オーストリアの地名の語源 その2



今日は「オーストリアの地名の語源」の第2回目として、東部4州の州都とウィーンの名の歴史をご紹介しましょう。ここにも意外な語源があって面白いですよ。

リンツ(Linz)- オーバーエスタライヒ州:

リンツの語源はこの地にローマ軍がやってくる前に住んでいたケルト人のことばで「レントス(Lentos)」といい、その意味は「曲がったもの」と推定されています。そして、その語源が示すとおり、ドナウ川はリンツのあたりで流れがうねっています。

のちにやってきたローマ人たちはこのケルト語源の「レントス」を借用してこの町を「レンティア(Lentia)」と呼びました。ローマ側の文献にこの地名が初めて現れたのは西暦410年のことです。これでだいぶ今の地名に近くなりましたね。そして799年にはドイツ語の文献に「リンツェ(Linze)」という地名が初登場、ここからさらに語尾の -e が抜けて、今の「リンツ(Linz)」になりました。実に何の波風もなしですね。

ザンクト・ペルテン(St. Poelten)- ニーダーエスタライヒ州:

オーストリアで最もデタラメのごとく地名が変化したといえば、なんといってもこの「ザンクト・ペルテン」でしょう。ここはローマ時代に「アエリクム・ケティウム(Aelicum Cetium)」と称していたのですが、今の地名と関係ないせいか、どこを調べてもその意味は書いてありませんでした。そして779年になると、今度は「トライスマ(Treisma:当時の発音ならトレイスマ)」という地名が現れるのですが、これはラテン語っぽくもないし、ドイツ語っぽくもありません。ケルト時代の地名が復活でもしたんでしょうか?

が、このいい加減そうな「トライスマ」という地名の時代に、ザンクト・ペルテンでは今の地名の基礎を作る出来事がありました。それは、ここで771年に「聖ヒポリュトス(Hippolytos)」が祭られたことです。で、ドイツ語圏の人たちはこの「ヒポリュトス」という名からまず頭の Hi-を省略して「Polyt(ポリュト)」としました。ちょうと「エリザベス」を「ベス」と呼ぶような略し方ですね。日本人なら「マクドナルド」を「マック」とか「マクド」と呼び、「エリザベス」は「エリザ」などと語の足のほうを削るものですが。そうそう、ふと思ったのですが、日本の幽霊には足がなくて、欧州の幽霊には頭がないというのは、こうした名前の略し方にも影響を与えているんでしょうか。(←まさか!)

さて、その後の人々は「聖ポリュト(Polyt)」からさらに y の字を省略。ドイツ語に限らず、言語にとってアクセントのない母音が脱落するのはよくあることです。さらにオマケで o の字が少し訛って oe になり、「聖ポリュト」は「聖ペルト(St. Poelt)」になりました。これでやっと今の地名である「ザンクト・ペルテン(St. Poelten)」に近くなりましたね。めでたしめでたし。

ちなみに、ザンクト・ペルテンの地名の大元となった「聖ヒポリュトス」という名の意味は「馬使い」だそうです。8世紀にこの聖人を祭り立てたということは、その前の時代にこのあたりを荒し回ったフン族だのマジャール族だのといった騎馬民族に相当な対抗意識でも燃やしていたんでしょうか?対抗心のわりにはやられっぱなしだったようですが。

もうひとつついでですが、聖ヒポリュトスが馬の守護聖人になったのは、単に名前の意味のせいだけのようで、本人の本業は向学心の高いローマの聖職者でした。が、晩年はコルシカ島に流されてそこで没し、そのあと仏アルザスの地に葬られたそうです。で、以上のどこを見ても本人とザンクト・ペルテンの間に直接的な関係は見当たりません。そのせいか、ザンクト・ペルテンの紋章に描かれている動物も聖ヒポリュトスにまったく関係のなさそうな「狼」になっています。この人たち、マジメに聖人様を拝む気はあったんでしょうか?

また、聞くところによるとベルギーのブルージュには、聖ヒポリュトスが馬で八つ裂きの殉教になる場面の絵(15世紀作)があるそうです。これ、「川の守護聖人であるネポムクが川に沈められたのだから、馬の守護聖人であるヒポリトスは馬にやられたんじゃないか?」という無責任な想像から描かれたとしか思えない絵ですが。

グラーツ(Graz)- シュタイアーマルク州:

この町の語源は至ってシンプルです。元々はスラブ系のスロヴェニア語で「小さな要塞」を意味する「グラデツ(gradec)」で、発音としてはここから e が抜けただけです。ちなみに、スラブ系のことばで小さくない要塞をさすときは、「グラード(grad)」となります。たとえばセルビアのベオグラードやロシアの旧レニングラードの「グラード」もこれと同じなんですよ。

グラーツのあたりには当初ケルト人が住み、それからローマ人が進出、で、のちのゲルマン民族の大移動の前にスラブ民族が東から押されてやってきたという経緯があります。そのとき騎馬民族にやられないように、スラブの人たちはせっせと質素な砦をこの地に作っていたんでしょうね。ご苦労なことです。

アイゼンシュタット(Eisenstadt)- ブルゲンラント州:

この町の地名はそれなりに変化こそしているものの、ザンクト・ペルテンほどいい加減ではありません。アイゼンシュタットは1118年にカストゥルム・フェッルム(castrum ferrum)というラテン語表記で文献に登場しているのですが、これはさしずめ「鉄のように堅固な砦」といったところでしょう。で、1264年にはハンガリー語で「キスマルトン」と呼ばれていたのですが、私はハンガリー語を知らないので、これに深入りするのはやめておきましょう

さて、1373年になるとハンガリー貴族であるカニサイ家がここで要塞をさらに固めます。そして、その頃の文献にはここがドイツ語でアイゼンシュタット(Eysenstat:当時の発音ならアイセンスタット)と記載されています。これでどうやら発音のほうはクリアですね。

ただ、今のアイゼンシュタット(Eisenstadt)はあたかも「鉄(Eisen)」と「都市(Stadt)」を足した地名のようになっていますが、これはよく考えるとちょっと変です。というのも、ここはアイゼンシュタットと呼ばれ始めたころ、まだ都市権をもっていませんでしたから。つまり、1373年の文献にある「Eysenstat」の「-stat」とは、今のドイツ語でいうなら「場所」などを意味する「Statt」とか「Staette」に相当すると見たほうが自然です。となると、1118年の文献にあった「鉄壁要塞」という意味の「カストゥルム・フェッルム」がそのままドイツ語に引き継がれたということになりますね。また、この町が何百年にもわたって「鉄のごとく固き要塞」という地名を頑なに守り続けてきたのは、古くは騎馬民族から近世以降ではオスマントルコまで、東からやってくる迷惑な連中に相当閉口していたことの表れかも知れません。

ウィーン(Wien):

ウィーンの語源についてはいろんなバリエーションを見かけますが、詳しくはエピソードNo.69ですでに述べてありますので、ここでは結論だけとしておきましょう。私がいちばん信じている説は、イリリア系ケルト人のことばで「森の小川」を意味した「ヴェドゥーニア(Vedunia)」がのちのローマ人に「ヴィンドボーナ(vindobona)」という名で受け継がれ、その頭のヴィン(vin)がドイツ語で「ヴィーン(Wien)」になったというストーリーです。で、ケルト人たちが見た小川は今、京都の紙屋川(ご興味のある方は地図で探してみてください)のように細々とした流れで、しかも堀川のように時には地中に潜って質素に存在しています。帝都ウィーンの語源がちばんショボいところはご愛嬌ですね。

◆参考資料:
Wikipedia - Linz
http://de.wikipedia.org/wiki/Linz
Wikipedia - St. Poelten
http://de.wikipedia.org/wiki/Sankt_P%C3%B6lten
aeiou - Aelium Cetium
http://aeiou.iicm.tugraz.at/aeiou.encyclop.a/a129629.htm
Oekumenisches Heiligenlexikon - Hippolyt von Rom
http://www.heiligenlexikon.de/BiographienH/Hippolyt_von_Rom.html
Wikipedia - Eisenstadt
http://de.wikipedia.org/wiki/Eisenstadt
Wikipedia - Graz
http://de.wikipedia.org/wiki/Graz
トホホだったウィーンの語源
http://onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-69.htm

※その他数冊の文献を読みましたが、何を読んだか忘れました。





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