オーストリア散策エピソード > No.129
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ネズミの暗躍と「清しこの夜」
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清しこの夜の礼拝堂
清しこの夜の礼拝堂(オーベルンドルフ)

この「オーストリア散策」のエピソードNo.17には、「オーベルンドルフの聖ニコラウス教会でパイプオルガンが壊れたことをきっかけにして、ギターで演奏の清しこの夜がこの世に生まれた」というお話しが出ています。が、その顛末をもっとよく調べてみたら、これにはちょっとひと悶着があったことが判明しましたよ。

「清しこの夜」の作曲はフランツ・クサーファー・グルーバー(1801-1862)、作詞はヨーゼフ・モーア(1792-1848)ということになっていますが、ヨーゼフ・モーアのほうはたぶんヨーゼフ・ショイバーというのが本当のフルネームだったようです。というのも、この人の父親だったフランツ・ヨーゼフ・モーアは子供ができたあとさっさとどこかに消えてしまったので。で、正規の結婚なしで子供を生んだということでヨーゼフのお母さんのアンナ・ショイバーは9フローリン(今のい金額でいえば4万5千円くらい)の罰金を言い渡されたのですが、これは貧乏だったショイバー家が糸紡ぎや編み物で細々と稼ぐお金の1年分に相当する金額でした。おかげでお金に困ったアンナは、「息子さんの洗礼の名付け親の権利を売っていただけませんか?」ともちかけてきたそこそこ裕福だけどイヤな死刑執行人の申し出を受け入れざるを得ないハメになりました。もっとも、これで死刑執行人のほうは少し名誉を獲得できたわけだし、ヨーゼフの洗礼も無事に済んだのだから、丸っきり不幸というわけではありませんけどね。

さて、洗礼こそどうにかわしたものの、生活の貧しさのほうはどうにもなりませんでした。そして、ヨーゼフ・モーアは祖母のマリア、母親のアンナ、2人の異父姉妹だか異母姉妹、それにいとこのマリア・テレジアといっしょにシュタイン通り9番地の狭くて湿っぽい1室で暮らしていました。しかもその近くには「メゾン・ド・プレズィール(喜びの家)」というザルツブルク最古(1794年創業で現在も営業中)の娼館もオープンしてて、環境もなかなかトホホ。おまけに、正式な父親をもたないという生い立ちから、ヨーゼフ・モーアを受け入れる学校はなく、仕事を教えてくれる親方もみつかりませんでした。このままいったらこの人はのんきに「清しこの夜」を作詞するどころか、一生貧民で終わるかも知れない雰囲気ですね。まさに大ピンチです!    

しかし、ここで1つの逆転劇が。それは、シュタイン通りのすぐ側の山にあるカプチーナー修道院から階段を下りてきたヨハン・ネポムク・ヒールンレという変な苗字をもつ聖堂合唱団の助任司祭が、傍らのボロ家から聞こえてくる当時9歳だったヨーゼフ・モーアの声に楽才を感じとったことです。そして、人の生まれや育ちを気にしないヒールンレは、さっそくヨーゼフ・モーアに聖ペーター修道院で音楽教育を受けさせました。するとヨーゼフ・モーアはヒールンレの思ったとおりの才能を発揮、13歳になった年にはヴァイオリンにギターにパイプオルガンをマスターし、ザルツブルクのコレギエン教会の合唱団のメンバーとしても優秀な美声を誇るようになりました。ちなみに、当時の教会の歌は平民にわからないラテン語で歌われるのが普通だったのですが、コレギエン教会ではなぜか誰にでもわかるドイツ語で歌うことも平気で行われていました。そして、この自由な精神は、「清しこの夜」がドイツ語で歌われたことと無縁じゃないんですよ。

さて、ザルツブルクで音楽の才能を伸ばしたヨーゼフ・モーアは、そのあとクレムスミュンスターの修道院で作曲も習得しました。さらに、1811年には神学ゼミナールにも学費タダで通わせてもらい、ここで司祭補佐の資格も得ています。そしていよいよヨーゼフ・モーアは運命の場所、オーベルンドルフの聖ニコラウス教会に赴任してゆきました。で、そこに待っていたのは教会にしちゃ珍しいリベラルな司祭のヨーゼフ・ケスラーでした。ケスラーのよき理解のもと、ヨーゼフ・モーアは本来ならラテン語で行うべきミサをドイツ語で行いました。これに村人たちが喜んだのはいうまでもありません。しかしこのことが教会の上部団体の耳に入ると、当局は「それはけしからん!(※注1)」と怒ってケスラー司祭を聖ニコラウス教会から追い出し、代わりに保守派でガチガチのゲオルク・ハインリヒ・ネストラーを派遣してきました。    

さあ、ここでいよいよ「清しこの夜」を巡るバトルの開始です。気軽に誰でも親しめるミサ曲をと考えるヨーゼフ・モーアは、親友でありよき師でもあったフランツ・クサーファー・グルーバーとともにドイツ語とラテン語の両方ありの曲を提案していました。しかし、司祭のネストラーはこれに猛反対。そしてライバル潰しのため、「ヨーゼフ・モーアは不道徳な私生児。そんな奴に味方するなんて許さないぞ!」と、本人に責任のない生い立ちを攻める卑怯な手段に出ます。すると、これを聞いた村人は掌を返したようにネストラーの側につき、ヨーゼフ・モーアは再びピンチに立たされました。また、あくまでヨーゼフ・モーアの味方をしたグルーバーも窮地に陥り、ここで2人の友情は踏ん張りどころを迎えます。    

ところがここでまた大逆転が!元々調子のよくなかった聖ニコラウス教会のパイプオルガンが、クリスマスミサの直前という絶妙のタイミングでネズミに噛られ、完全にトドメを刺されたのです。おかげでミサはヨーゼフ・モーアとグルーバーの提案どおりギターでやるしかなくなりました。そして、ギターでやるとなればあまり凝ったミサ曲はムリで、「清しこの夜」を歌うしかありません。1818年12月24日のネストラーは、さぞ苦虫を噛み潰したような顔でこれを受諾したことでしょうね。    

ちなみに、このオルガンを壊したホントの犯人はネズミじゃなく、ヨーゼフ・モーアの親友だったグルーバーという説があります。しかし私が想像するに、本当の下手人は実はネズミでもグルーバーでもなく、司祭様のご意向や教会勢力の道徳攻勢に面と向かって刃向えなかった村人たちじゃないんでしょうか?その後ヨーゼフ・モーアの生い立ち問題はなんだかウヤムヤになっているし、みんな「清しこの夜」の歌をけっこう喜んでいたところから見て、村人たちが本心からネストラーの味方をしたとは思えないのですが。もしそれが事実なら、ネストラー司祭は自分が力でねじ伏せたはずの連中にまんまといっぱい食わされたマヌケということになりますね。オーストリアの歴史は「不思議あるところにトホホあり」が基本的な定番ですから、これは十分あり得ることと思いますよ。    

※注1)司祭の説教やミサをラテン語にしておけば民衆には意味がわからないから聖職の権利独占ができて教会は有利。しかしドイツ語でミサなんてやったらこれが台無しですから、当時のカトリック教会がヨーゼフ・モーアたちのような行動をよく思わないのは当然でした。ちなみに、ルターやカルヴァンの宗教改革では聖書をドイツ語やフランス語に翻訳するという作業がカトリック教会からすごく圧力を受けており、その理由はヨーゼフ・モーアが受けた圧力と根がいっしょです。もっとも、ヨーゼフ・モーアの時代にはヴォルテールなどの啓蒙思想がだいぶ普及したあとでしたから、北のローマといわれたザルツブルクでさえドイツ語の歌が歌われていたという一面も。さらに、ヨーゼフ・モーアのよき理解者だったオーベルンドルフの聖ニコラウス教会のケスラー司祭に至っては、「キリスト本人が元々アラム語で話していたのだから、これをラテン語にしていいのならドイツ語だっていいはず」と、頭の開けたことを言ってました。その意味でいうと、「清しこの夜」の逸話には、深いところでカトリックの旧勢力後退の象徴という性格もあったといえそうですね。


◆参考資料:
Stille Nacht Museum - Joseph Mohr: Kindheit in Salzburg
http://stille-nacht-museum.org/joseph-mohr/kindheit.htm
Stille Nacht Museum - Oberndorf: Urauffuehrung 1818
von 'Stille Nacht! Heilige Nacht!'

http://stille-nacht-museum.org/joseph-mohr/oberndorf.htm
salzburg.com - Stille Nacht
zhttp://www.salzburgs.com/stille-nacht/museum.htm
Oesterreich Lexikon - Josef Mohr
Verlagsgemeinschaft Oesterreich-Lexikon, Wien
Oesterreich Lexikon - Franz Xafer Gruber
Verlagsgemeinschaft Oesterreich-Lexikon, Wien

[お礼] このコンテンツは一度間違えて上書きして消えていたのですが、2008年12月22日にご親切な方がWEB ARCIVEのサイトにキャッシュされた過去のページを見つけてご連絡してくださいました。おかげさまで無事に元の通り復元できました。ありがとうございます。



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