オーストリアで最初の国歌(正確には国じゃなく皇帝を讃える歌ですが)となった「神よフランツ帝を護り給え」を作曲したのは、この国で屈指の愛国的音楽家だったとされるヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)でした。この人が1809年に亡くなったときは、「ウィーンがナポレオンに占領されたことによるショックが原因」とさえいわれていわれているほどです。
ところが、ハイドンが生まれたローラウという小さな町を当時の地図で探したら、どうにか辛うじてオーストリア領内に存在こそしていたものの、その生家はなんだかあまりオーストリア風という感じじゃありませんでした。また、本人が長年お仕えしていたエスターハージー家はハンガリー貴族ですよ。さらに、ハイドンの主要勤務地であったアゼンシュタット(エスターハージー家の居城のあったところ)がオーストリア領になったのは、なんと1921年になってからです。これはハイドンが亡くなってから100年以上もしたあとですね。おまけにハイドン作曲の皇帝賛歌には、どこかオーストリアじゃなくクロアチアの民謡に似ているところがあるのだとか。どうもこの愛国歌とウィーンやオーストリアには思ったほど縁がなさそうです。

ハイドンの生まれた家
それでは、今の国歌のメロディーの作曲者であるモーツァルト(1756-1791)はどうでしょう?この人はオーストリア屈指の観光地であるザルツブルクの生まれで、そのあとウィーンに住んでいますね。旅行だけはずいぶんあちこちにしていますが、本拠地は常に今のオーストリアの中です。しかし、意外でしょうけどこの人も完全にオーストリア人というわけではないんですよ。というのも、モーツァルトが生きていた時代のザルツブルクはオーストリア領ではなく、バチカンのローマ教皇のご領地だったからです。敢えて国名をつけるなら、ザルツブルク大司教国とでもいったらいいでしょう。そして、ザルツブルクが最終的にオーストリアの一部となったのは、モーツァルトの死後25年も経った1816年です。
さて、国歌のほかで愛国的な曲としては、毎年ニューイヤーコンサートの最後に演奏される「ラデツキー行進曲」がありますね。が、これを作曲したヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)は実をいうとハンガリー系ユダヤ人家系の生まれです。1804年にユダヤ人街のレオポルトシュタット(今のウィーン2区)で生まれていますから、親の代はヨーゼフ2世のユダヤ寛容令(1781年)のあとでハンガリーからやってきたばかりでしょう。また、ヨハン・シュトラウス1世がいた頃のオーストリアはまだまだユダヤ人に対する差別や制限がすごく強い時代にありました。これで愛国的な行進曲を作れるというのはかなりの根性ですね。ついでに、この行進曲の中で讃えられているラデツキー将軍というのもオーストリア系じゃなくてボヘミア系の貴族なんですよ。ここでもウィーンとオーストリアは影が薄々です。
そこで今度は「オーストリア第二の国歌」ともいわれる「美しく青きドナウ」を見てみましょう。この曲は戦争でプロイセンにボロ負けして意気消沈するオーストリアの人々を元気付けようと作曲されたもので、作者はヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)です。ユダヤ系とはいえ、この人は親子揃ってウィーン生まれだし、その後もウィーンで活躍し、ウィーンで亡くなったウィンナーワルツの大作曲家ですから、これならほぼ「純オーストリア」と言っても差し支えなさそうです。ところが!なんとヨハン・シュトラウス2世はオーストリア人ではなくドイツ人でした!正確にいうと、途中まではオーストリア人だったのですが、本人の個人的な事情によってそれが変わったのです。
実を言うと、ヨハン・シュトラウス2世は離婚問題で困ってドイツ人になりました。最初の妻だった歌手のヘンリエッテ(1862年結婚)とは死別(1878年)でしたが、その半年後に結婚した30歳年下のリリー・ディートリヒとは性格の不一致で破綻。ところが、当時のカトリック教会やオーストリアの法律では離婚がOKされなくて、ヨハン・シュトラウス2世はのっぴきならない状態にありました。そこでこの人は悪知恵を働かせ、離婚の自由があるプロテスタントに改宗します。そして仕上げにドイツのザクセン・コーブルク・ゴータという小公国の国籍を取得していたのです。もっとも、こうして結婚した年上の妻アデーレは夫をよい方向に操縦する術をよく身つけた賢い女性でしたから、結果はオーライでしたけど。
しかしこうしてみると、オーストリアの愛国歌に一役買っている人は揃いも揃ってオーストリアの外に片足を踏み込んだ人ばかりですね。そういえば、ハイドン作の皇帝賛歌より古い時代の愛国的英雄賛歌の題材となったプリンツ・オイゲンも、元々はフランスのサヴォイ家出身で、本来ならオーストリアの天敵になるはずでした。
そこで今度は逆にオーストリア潰しでいちばん活躍した人は誰だったのかを見てみましょう。敵対度が高かったという点ではボヘミアのオットカル王、プロイセンのフリードリヒ2世、フランスのブルボン家の面々、それにナポレオンがいますね。でも、地図上から「オーストリア」という地名を抹殺してここを東方辺境時代の「オストマルク」改名させたヒトラーがやっぱり最もパワフルだったような気がします。で、ヒトラーはどこの生まれかというと、実はイン川(ドナウ川の支流)を挟んでギリギリながらオーストリア側にある、ザルツブルク州のブラウナウ・アム・インなんですよ。つまり、ヒトラーはオーストリア人だったのです。
こうしてみると、もし外国人や外国スレスレの人たちがいなかったら、オーストリアでは愛国歌というものがロクにできなかったかも知れませんね。それどころか、もしこの国がオーストリア人ばかりだったら逆に潰れていたかも知れないというのは冗談みたいです。こうしたことが起こったのは、たぶんオーストリア本体が長いこと民族主義と一線を画していた帝国で、その実態が個人経営に近い「ハプスブルク商店」だったことと無縁ではないでしょう。
余談ですが、国歌が純国産でなというのは何もオーストリアに限ったことではありません。ドイツの国歌は限りなくハンガリーに近いオーストリア人であるハイドンの作曲だし、フランスの国歌はフランス領になったアルザスのドイツ人が作曲してますから。でも、こうしたいい加減さはどこかナショナリズムをおちょくっているみたいで面白いですね。
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