オーストリア散策エピソード > No.123
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チェコ軍団よ、どこへ行く?
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第一次世界大戦のとき、オーストリア=ハンガリー帝国軍の兵士は今ひとつヤル気なしでダメダメだったといいます。といっても、全軍がまったくのトホホ状態にあったわけではありませんよ。特にすごい戦闘能力を発揮したのはチェコ軍団でした。ただし、その活躍はオーストリア=ハンガリー帝国の味方としてではなく、もっぱら敵として花開いていますが。

当時、今のチェコ共和国にあたる部分はボヘミア王国といって、ほとんどオーストリアの属領のようになっていました。また、今のスロヴァキア共和国はモラヴィアといって、長いことハンガリーの属領という地位にありました。そして、このチェコ人とスロヴァキア人は同じスラブ系であるロシア軍にけっこう気易く投降していました。さらに、もし第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が負ければ自分たちの独立国家を作るチャンスができると考え、チェコ人とスロヴァキア人の間にはむしろ積極的にロシア軍の味方をしようという動きすらあったほどです。で、この投降者にロシアが自力で捕虜にしたチェコ兵とスロヴァキア兵を加えると、1918年1月の時点で総勢5万人くらいの軍団に膨らんでいたそうです。

さて、こうしてできた新生チェコ軍団は、東進の向きを変えて西に攻め入ることになり、ウクライナ戦線でこれまでとは逆にオーストリア=ハンガリー軍やドイツ軍と対峙します。しかも、今度はかなりのヤル気満々でした。ところが、その直後の1918年3月にロシアの革命新政府が「ブレスト・リトフスク条約」でドイツと講和。これで東部戦線は休戦になり、チェコ軍団はやることがなくなってしまいました。

そこでパリにあったチェコの亡命臨時政府(リーダーはマサリクというマトモな人) とフランスの協定に従い、チェコ軍団はフランスの指揮下で西部戦線に向かうこととなりました。しかし、ここで問題がひとつ。それは、どうやってロシアから西部戦線の現場に辿り着くかということです。まさかドイツを横切っていくわけにはいきませんね。また、スカンジナヴィア半島から船でベルギー経由という道も、スウェーデンが中立国なのでダメでしょう。かといって南に進路をとればオーストリアと同盟しているトルコがあるからこれも通れません。それと、ロシア北部のアルハンゲリスクから白海経由でノルウェーの沖を通ってフランスへというルートもあったのですが、なぜかこれは船舶不足という安易な理由により実行されませんでした。

で、この問題を解決すべく、我らがチェコ軍団はとんでもない遠回りを実行することにしました。それは、シベリア鉄道で極東に向かい、そこから日本を経て米国に渡り、ついでに大西洋も渡ってフランスに上陸しようという壮大な地球一周計画です。そんなに遠い先まで戦争が続いていると思っていたとはすごいですね。

チェコ軍団はさっそくモスクワ南東部の町ペンザに集結し、1818年4月から順次ウラジオストックを目指して出発しました。しかし、シベリア鉄道の輸送能力がすこぶる低かったため、各部隊の列車はペンザからイルクーツクまでの各駅で見事に立ち往生。しかもそうした中、5月14日にオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜とチェコ軍団がばったり行き会ったことで大喧嘩が発生しました。これ、元々は「モラヴィアを属領にしたハンガリー野郎め!」とか、「なんだと!チェコ軍団のアホめ!」といったたぐいの罵り合いにすぎませんでした。しかしそれがだんだんエスカレートして歯止めが利かなくなり、ついにはのちの歴史に「チェリャビンスク事件」と記録される戦闘にまで発展してしまいました。旅はまだ長いというのに、チェコ軍団はこんなところで油を売ってていいんでしょうか?

ちなみに、この事件をきっかけにしてロシアの革命新政府は、獰猛なチェコ軍団に武装解除を迫りました。しかし、遠い彼方の西部戦線で大暴れしよう意気盛んだったチェコ軍団は、「こんなところで武器を取り上げられるなんでヤダ!」と反抗。そして5月25日になると、今度は自分たちの列車が立ち往生していたシベリア各地でロシア新政府の赤軍を相手に新たな反乱を開始、ベンザからイルクーツクまでをあっという間に占領してゆきました。こうなるともう手がつけられませんね。

とはいえ、チェコ軍団は行き当たりばったりで無計画に戦闘を拡大していったため、食料補給などの道はなく、事実上は大シベリアで孤立した状態にありました。そしてこれは、チェコ軍団の援護という大儀名分で日本や米国などがシベリア出兵をすることにもつながりました。ところが、ウラジオストックで待っていた米国軍はここで待ちぼうけ(日本軍のほうはもっと奥地に進軍してゆきましたが)に遭っています。というのも、思いのほかに強かったチェコ軍団の力を見た英仏が、「うひょひょ、こりゃロシア革命政府の退治に使えるぞ!」とロクでもないことを考えたからです。おかげでせっかく東進してきたチェコ軍団は、モスクワ陥落を目指して西のほうに逆流してゆきました。ちょっと寄り道が多すぎですよ。

こうやってチェコ軍団がシベリアの地を右往左往しているうちに1918年11月となり、第一次世界大戦は終結。19世紀のジュール・ヴェルヌは「80日間世界一周」というのを書いてまいしたが、20世紀初頭のチェコ軍団は結局7ヶ月かかっても地球を半分すら回れませんでした。発想だけはすごかったのですが。でも、こんなにすごい底力をもつ軍団なら、堂々とドイツを横切って西部戦線に行くことだってできたかも知れませんね。

◆参考文献:
世界飛び地領土研究会 - 消滅した国々: チェコスロヴァキ
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/czech.html
チェコスロバキア軍団とシベリア出兵
http://www.a-saida.jp/images/cheko.htm
第一次世界大戦 − シベリア出兵の開始
http://ww1.m78.com/sib/start%20%82%8F%82%86%20the%20expedition.html
クニック20世紀 - シベリア出兵宣言
http://www.c20.jp/1918/08siber.html
近代日本戦争史概説 - 戦争史 シベリア出兵
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-siberia.html
Wikipedia - ボリシェヴィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD


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