オーストリア散策エピソード > No.120
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チロルの田舎町に王宮がある理由
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インスブルックの王宮
インスブルックの王宮

インスブルックにはハプスブルク家の立派な王宮があります。しかし、ウィーン、プラハ、ブダペストといった大都市ならまだしも、チロルの田舎町にこれほど大きな王宮があるというのはどこか不自然じゃありませんか?これ、調べてみる価値は大いにありそうですね。

チロルをハプスブルク家が手に入れたのは1363年のことでした。元の領主であるチロル伯家の直系男子が断絶し、あとに残された女性のマルガレーテ(1318-1369)がこのご領地をハプスブルク家に譲ったのです。その後1402年になるとチロルはオーストリア公フリードリヒ4世(1382-1439)に相続されました。で、フリードリヒ4世は1420年にチロルの首都を現イタリア領のメラーノ(オーストリア名はメラン)からインスブルックに遷都。さらにこの人はインスブルックの富裕な市民の家を2つ買い取ってくっつけ、これを自分の居城にました。そして、この城のあった場所が今の王宮のあるところなんですよ。

さて、1463年になると、今度はフリードリヒ4世の息子であるシギスムント(1427-1496)がチロルの領主の地位に就きます。で、この人は他人の意見に左右されやすい意思薄弱な人物だったのですが、当初はどうにかこうにか善政を行っていました。また、ジギスムントの時代にはインスブルックの北東にあるシュヴァーツで銀山が開発され、1477年にはハル・イン・チロルという町に銀貨の鋳造所もできました。世にいうオーストリア銀貨(こちらで画像が数点見られます)の誕生です。この銀貨によって金回りがよくなったジギスムントはインスブルックの城を大幅に拡張、今の立派なホーフブルク宮殿の基礎がここで固まりました。また、彼はこのとき欧州中から優れた芸術家もインスブルックに呼び寄せたそうですよ。

ところが、お世継ぎもいないまま妻が亡くなった1480年ごろから、ジギスムントはウヒョヒョおじさんに大変身。悪徳大臣らに乗せられて連日ドンチャン騒ぎの宴会にウツツを抜かし、ついでに町娘だろうがなんだろうがおかまいなしであちこちの女性に手を出すようになってしまいました。おかげでチロルの財政は、年間で100万グルデンもの富をもたらすほどの銀貨鋳造があったにもかかわらず、どんどん沈没してゆきました。しかもジギスムントはこれを解決すべく悪貨を大量に生産したものだから、経済は悪化の一路。そしてさらに悪いことに、ジギスムントは1485年に再婚したものの、この妻もお世継ぎを産むことなく死亡。で、なぜかジギスムントと町娘たちとの間にだけはたくさん子供が生まれてしまうサイテーなことになってしまいました。

ついでながら、ジギシムントには銀貨がロクに残ってないのに「豊貨公(der Muenzreiche)」というあだ名があるのですが、これは本人が亡くなってから10年もしてからできた呼び名だそうです。そりゃそうでしょうね。もし本人の存命中にあだ名がつくとしたら「借金公」か「浪費公」になっていたはずですから。

ところで、このトホホな出来事の前には、皇帝フリードリヒ3世(1415-1493)が娘のクニグンデをジギスムントのところに預けていました。トルコやハンガリーの脅威から娘を守るためです。が、これを見たヴィッテルスバッハ家のバイエルン公アルプレヒトは、ハプスブルク一門の手にあったチロルを我がものにしようと画策。「ウッシッシ、お人よしで世継ぎのいないジギスムントをうまく乗せて皇帝の娘クニグンデを娶ればチロルは俺のもの!」と考えました。そして、フリードリヒ3世のサインを真似た偽の結婚許可状を作り、まんまとクニグンデを妻にしました。自分の領地を狙う敵に乗せられたジギスムントはホントにアホです。

この悪巧みを知ったフリードリヒ3世はカンカンになりましたが、カトリックは離婚を認めてなかったので後の祭り。そこでフリードリヒ3世は別な策に打って出ます。それは、ジギスムントを引きずり降ろして、代わりに自分の息子である次期皇帝のマクシミリアン(1459-1519)をチロルの領主にするということです。で、チロルの議会はどうしようもなくなったウヒョヒョおじさんのジギスムントにうんざりしていましたから、フリードリヒ3世の提案をあっさり支持。こうしてジギスムントは1490年にチロルの領主の地位をマクシミリアンに譲り、インスブルックの城はハプスブルク本家のものとなりました。ちなみに、このときジギスムントはお仕置きとしてお小遣いをだいぶ減らされ、もう大宴会もウフフもできなくなったそうです。可哀想ですけど仕方ありません。

さらにこのあと皇帝となったマクシミリアン(神聖ローマ皇帝としてはマクシミリアン1世)はインスブルックに移り、ここを神聖ローマ帝国の首都としました。こうして東アルプスの谷底にある田舎町の城は、とうとう帝国の王宮に昇格してしまったのです。やっぱり不自然なことの裏側にはそれなりの事情があったんですね。

なお、マクシミリアン1世の時代にはこの王宮に有名な黄金の小屋根(1500年)や武器庫(1500年〜1505年)も加えられました。しかもこの皇帝はインスブルックがとても好きになったそうですよ。さらにその後も彼の弟、孫、ひ孫らの手によって宮廷付属教会、マキシミリアン1世の廟などが出来て、インスブルックの王宮はもっと立派になってゆきました。また、現在の王宮はロココ調でウィーンのシェーンブルン宮殿とよく似た色になっていますが、これはインスブルックと黄色がお気に入りだったマリア・テレジアが1754年から1770年にかけて大改装した結果です。まあ、きっかけはトホホだったにせよ、その後の王宮が発展を遂げたのはインスブルックがハプスブルク家の人々に愛される町だったからこそといえそうですね。めでたしめでたし。

◆参考文献:
中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン一世伝 - 第2部第2章 ブルージュの俘因
江村洋著、 中央公論社
Wikipedia - Sigmund von Tirol
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.s/s575360.htm
Wikipedia - Friedrich IV, Herzog von Oesterreich
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.f/f831241.htm
Wikipedia - Sigmund von Tirol
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.s/s575360.htm
Wikipedia - Maximilian I
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.m/m365605.htm
Wikipedia - Friedrich III
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.f/f825662.htm
チロル州観光局 - チロルの歴史
http://www.jtc.at/cmsjtc/cms/front_content.php?idcat=65
Hotel Post, Innsbruck 歴史探訪 チロル伯領の成立と発展、他
http://www.hotel-neue-post.at/jp/jhistory.html



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