オーストリア散策エピソード > No.115
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ハーディク将軍のベルリン攻略
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アンドレアス・ハーディク
アンドレアス・ハーディク

歴史の本にはあまり書いてありませんが、実はハプスブルク帝国って一度だけプロイセン王国の首都ベルリンを陥落させたことがあるんですよ。しかも、戦争で滅多に勝てないオーストリアに首都を攻略されるだけでもサイテーなのに、それがプロイセン切っての猛将フリードリヒ2世の時代だったというのはすごい皮肉です。

フリードリヒ2世はマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだ1740年に、「女の為政者など誰が認めてやるものか!」といってシュレジエンを侵略。これでご領地の一部を分捕られたマリア・テレジアがメチャクチャ怒ったのはいうまでもありません。さらに女嫌いのフリードリヒ2世はロシアの女帝エリザベートのことを「メス豚」と言い、フランスのポンバドール夫人(国王ルイ15世をリモコン操作してた才女)は「あばずれ」とこき下ろしていました。もちろんエリザベートとポンバドール夫人もカンカンとなり、いつしかオーストリア、フランス、ロシアは同盟してプロイセン包囲網を形成。フリードリヒ2世にきつーいお灸をすえてあげる準備ができました。

これに対してフリードリヒ2世は、「売られた喧嘩は買わなきゃソンソン!それに戦争はだーい好き!」とばかりに気易く応戦。老将シェヴェリーン将軍が「陛下、この戦争はやめというほうが身のためです」というのも聞かず、1756年8月には国際法を破って中立国だったザクセンに侵攻して、自分のほうから7年戦争の幕を切って落とす始末となりました。

しかしシュレジエン侵略のときと違って、今度のオーストリア軍はだいぶ上等になっていました。そして1757年6月18日には、ハプスブルク家の家臣・ダウン将軍の率いる軍勢が不敗を誇っていたプロイセン軍にコリンの戦いで勝利。7年戦争そのものはその後も一進一退を続けたのですが、とりあえず1つでも戦いに勝ったことでオーストリア軍は自信をつけました。そしてその自信から、とあるジョークを考つく人も出てきます。それは、マリア・テレジアの夫の弟であるロートリンゲン公カールでした。この人、勝ち戦を敗北に持ち込む才能があった人です。トホホ。

カール公はさすがにアホだけあって、ハンガリー系下級貴族出身の将軍、アンドレアス・ハーディク(1710-7190、伯爵、生まれた場所は今のスロヴァキア)に「敵軍の首都ベルリンを急襲しちゃえ!」という突拍子もない命令を出しました。

ハーディク将軍は文芸を愛し、科学技術の造詣が深く、いくつもの外国語を話し、古代ギリシア、ローマの古典も原書で読めるというマトモなインテリで、22歳のときからハプスブルク家に軍人として仕えていました。で、命令を受けたのがこの人だったのはハプスブルク家にとって不幸中の幸い。この将軍は自分の率いる程度の軍勢でベルリンを完全制圧するなんて、常識で考えたら到底ムリだということをよく知っていましたから。そしてハーディク将軍は、スピードとペテンを駆使してこの課題をクリアしようと心に決めました。

当時の軍隊といえば、プロイセン軍だろうがフランス軍だろうが、どこもせいぜい1日に2マイルぐらいしか前進しませんでした。というのも、途中の村や町で戦争に関係のない人々を相手に略奪だの狼藉といった副業をしていたので。これに対してハーディクの軍隊はお行儀よく副業なしで行軍していましたから、歩兵団で1日32マイル、軽騎兵団では1日50マイルも前進できました。しかもハーディク将軍は以前フリードリヒ2世に仕えていた兵士をしっかり雇っていたので、ベルリン攻略の近道も知っていました。

こうして1757年10月16日、あっという間にベルリンに着いたハーディク将軍は300人の軽騎兵を連れて市当局に降伏と賠償金を要求しました。しかしベルリン当局はこの時点で事態を楽観していたためそれを拒否。そこでハーディク軍は翌10月17日にこの王都のシュレジエン門をぶち破り、同時に歩兵が市中に侵入してわき目も振らず市当局の責任者のところに突入。そして「町の略奪はしないから降伏して早々にお金を下さいな」と求めました。これにはベルリン当局も大慌て。ドサクサの中で混乱し、ハーディク将軍が本気で町を破壊しようとは思ってないことなど知らずに、ウッカリその要求をのんでしまいました。

ハーディク将軍が要求した金額については金貨で30万ターラーという説もあれば50万ターラーとか60万ターラーといった説もありますが、最終的に手を打ったのは20万ターラーだったといいます。また、別途で兵士たちのために1万5千ターラーを要求し、これもOKが出ています。途中の村や町を焼き討ちにしなかったのは、ベルリンからせしめて配分するという算段があったためなんですね。

ちなみに、このときのハーディク将軍たちが持ってきたマトモな武器といえば4ポンドの大砲が2つと6ポンドの大砲が2つの計4台といった程度で、兵隊の総人数も3,160人(数十人という説もありますが、いくらなんでもそれはすごすぎかも...)といったところでした。もしベルリンの人々が長期戦に持ち込んでいたら返り討ちだって可能だったかも知れませんよ。

でも、スピーディーに攻め、相手を撹乱して急がせ、お金をいただいたら本当の兵力がバレる前に撤収って、今の時代でいうなら振り込め詐欺と手口がよく似てますね。なんかひどすぎ...。

そうそう、ハーディク将軍はこのときお金のほかに「手袋21足」という要求も出しています。これはウィーンの宮廷にいるマリア・テレジア陛下へのおみやげなんだそうですけど、21足というところはいかにも中途半端。これ、完全にギャグでしょう。

こうして守備よくお金と手袋をいただくと、ハーディク将軍は翌10月18日に急いで退散。ベルリンの陥落はわずか1日で終わりました。そして、ウィーンに帰ったハーデク将軍は当然のことながら意気揚々とマリア・テレジアに謁見し、おみやげの手袋を渡しました。「まあ、素晴らしい!」というお褒めのことばを期待しながらね。ところが!マリア・テレジアはその箱をあけるや、「アハハハハ!」と大笑い。なんと、中から出てきたのは左手の手袋ばかり21足でした。プロイセンの軍人や当局者を翻弄したインテリ将軍も、最後の最後ではベルリンの手袋屋に一杯食わされたようです。

こうしてみると7年戦争というのは恥晒しなことがいっぱいありますね。それと、いちばん高笑いしたのがベルリンの手袋屋さんだったというところは天晴れです。

◆参考文献:
マリア・テレジアとその時代 - 第6章 7年戦争
江村洋著、 東京書籍
Hadik auf Futak, - Andreas Reichsgraf
http://www.kuk-wehrmacht.de/biograph/f0010hadik.htm
Der lagendaere Husarenritt des FML Andreas, Graf Hadik auf Futak nach Berlin 1757
http://www.kuk-wehrmacht.de/gefechte/175719hadik.html

aeiou - Hadik Andreas, Reichsgraf von Futak
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.h/h040206.htm
A thousand years of Hungarian art of war - A daring raid in Berlin
http://www.hungarian-history.hu/lib/thou/thou08.htm

◆画像元:
ハーディク将軍の肖像 − Fine Arts in Hungary
http://hungart.euroweb.hu/english/w/weikert/muvek/hadik.html



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