オーストリア散策エピソード > No.113
前に戻る


カラ・ムスタファの大煩悩
line


カラ・ムスタファ
カラ・ムスタファ

ウィーンはオスマントルコの大軍に2度も包囲されているのですが、当時の情勢を考えるとどちらもセーフだったのはどこか不思議。日本に蒙古が襲来したときの神風みたいな奇蹟でもあったんでしょうか?もっとも、いくらウィーン名物の強風が吹いてもオスマントルコ軍はドナウ川に船を浮かべて来たわけじゃないので、あんまり威力はないと思いますけど。

1回目のウィーン大包囲は1529年9月に起こりました。スレイマン大帝の率いる12万人もの軍勢がやってきたのです。対するにウィーンの防衛軍はわずか5万数千人。しかし、それからたった1ヵ月後に敵軍はあっさりとウィーンから退却。その理由については「10月に入って寒くなってきたから」という説が一般的なようですが、晩秋の準備も考えに入れず遠征するほどスレイマン大帝がアホだったとは思えません。本当は何か別な理由があったんじゃないでしょうか?

2回目のウィーン大包囲は1683年でした。今度の総司令官は大宰相のカラ・ムスタファで、しかも秋じゃなくちゃんと暑い7月のうちにやってきてます。どうやら前回より少しは賢くなったようですね。一方、これを受けて立つはずの神聖ローマ皇帝レオポルト1世はさっさとウィーンを脱出してパッサウ(今のドイツとオーストリアの国境にあるドナウ川沿いの町)に逃れ、完全にヤル気なし。おかげでウィーンの守りに就いていたのは、2千人の市民からなる頼りない軍団と職人や学生団体から提供された3千人の素人を含む総勢1万6千人だけというありさまでした。

しかしこの時のオスマントルコ軍の戦闘は、結果だけ見るとなんだかノラリクラリという感じが否めません。ある歴史の記述には、「巨砲をもって来なかったから城壁破りに困って苦戦」ということも書いてありましたけど、これはすごく言い訳がましい感じがします。だいいち、ロクな武器も持たずに大遠征をする軍隊なんてあったら、ウィーン到着の前にハンガリーのプスタ平原あたりで追い剥ぎの餌食でしょう。

こんな調子ですから、オスマントルコ軍は武闘と程遠いウィーンのパン屋などといった連中を相手に計10回ほどの戦闘を仕掛けながらも、結局帝都を陥落させることができませんでした。しかも、そうやってモタモタしているうちに6万5千人の兵力をもつポーランド王ヤン・ソビエスキーとロートリンゲン公カールの援軍がやってきて、とうとう9月12日にオスマントルコ軍を蹴散らしてしまいました。

なお、当時のヨーロッパの軍隊というのはけっこうひどいならず者をかき集めたガラの悪い集団で、戦闘のほかに略奪もひとつの仕事としていました。そんなわけですから、ウィーンを救ったあとのキリスト教軍が逃走したオスマントルコ軍の宿営テントに残る物品を我先にと奪い合ったのはいうまでもありません。しかもその意地汚い分捕り合戦の輪の中には、情けないことにヤン・ソビエスキー王の姿もあったと伝えられています。

さて、それでは今日の謎の答えに入ってゆきましょう。カラ・ムスタファがウィーンをなかなか攻め落とさなかったワケは、どうやら上に述べた戦利品争奪戦と関係があったようです。当時のオスマントルコの規則によると、敵地を力づくで破って勝ったときは、戦闘に参加した兵士たちが3日間もそこで略奪をし放題となっていました。しかし、もし相手が占領される前に町の明渡しを申し出てきたときは、最高司令官がその町にあるお宝をどうするか決められたんだそうですよ。

帝都ウィーンともなれば、そこにある金銀財宝は計り知れません。そして、その財宝をカラ・ムスタファが自軍の兵士たちに邪魔されずごっそりいただこうと思えば、ウィーンにはどうしても「玉砕」じゃなく「降伏」をしてもらわなくてはならなりませんでした。

そんなわけですから、オスマントルコの第二次ウィーン包囲が失敗に終わったのは、ヤン・ソビエスキー王やカール公に率いられたキリスト教軍の英雄的奮闘のおかげというよりも、こっそりお宝頂戴計画に励む大宰相カラ・ムスタファの自滅による部分のほうが大きいでしょう。

ついでながら、のちにドイツ系の人々の大ヒーローとなったサヴォイ家出身のプリンツ・オイゲン公はこのとき20歳の大佐としてキリスト教軍に参加していたのですが、この人も財産作りに大きな情熱を燃やした点ではカラ・ムスタファに引けをとりませんでした。しかも、オイゲン公のほうは運よくお宝獲得作戦にだいぶ成功を重ねたおかげで、ウィーンのベルベデーレ宮殿をはじめとする皇帝顔負けの城をいくつも建てていますよ。よかったですね。

では、今日のお話しをまとめましょう。私はカラ・ムスタファの欲深ぶりに、実はなんだか微笑ましいものを感じています。というのも、もしこの宰相が私利私欲のまったくない人物だったら、ウィーンは遠慮なくオスマントルコ兵たちの破壊と略奪に遭ってムダな血がたくさん流され、もっとロクでもないことになっていたはずですから。欲や煩悩は時として、罪のない人の命をより多く救うこともあるんですね。

また、カラ・ムスタファにとって大きな誤算だったのは、恐怖におののきながらも降伏せずに耐え抜いたウィーンの市民、職人、学生たちのしぶとすぎる態度でしょうね。他の土地にも城やご領地のある皇帝や貴族と違って、ウィーンの平民は町を奪われたら行くところがありません。こういうときの人間というのは、甘く見ちゃいけませんよ。そういえば16世紀にシュヴァーベンの勇猛な傭兵たちがスイスの農民を攻めに行って返り討ちに遭ってますけど、オスマントルコが来たときのウィーンの人々は、ちょうとこのとき郷土防衛に燃えたスイスの農民と同じくらい気丈な状態にあったのでしょう。

◆参考文献:
ハプスブルク帝国史 - 第5章 対トルコ防衛戦とハンガリーの解放
ゲオルク・シュタットミュラー著、矢田俊隆・丹後杏一訳、刀水書房
ウィーンの内部への旅 - 軍事歴史博物館の中で
ゲルハルト・ロート著、須永恒雄訳、彩流社

オスマン帝国 - 「壮麗者スレイマンの光輝」
鈴木董著、講談社現代新書

◆画像元:
Hungarian Electronic Library - カラ・ムスタファの肖像
http://mek.oszk.hu/01900/01911/html/index9.html



line

前に戻る