オーストリア散策エピソード > No.109
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優しいパリス・ロドローンの大重税
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ザルツブルク大司教・パリス=ロドローン
パリス・ロドローン


今のザルツブルク大聖堂が出来たのは1628年だったといいます。また、ここに大学ができたのは1622年のことでした。しかし、ちょっと考えてみるとこれは非常に不思議なタイミングですよ。というのも、これってあの悪名高い30年戦争(1618年〜1648年)の真最中ですから。この戦争ではザルツブルクに隣接するドイツやボヘミアの土地が徹底的に荒らされ、オーストリアでもデュルンシュタインの城が木っ端微塵に破壊されています。とても都市建設の余裕などなかったと思うのですが。

30年戦争というのは、カトリック勢力の弾圧で頭にきたプロテスタントがプラハで起こした反乱から始まったさとれているのですが、その後いろんな国やグループの利害が雪ダルマみたいに膨れ上がり、最後にはフランス(カトリック)を黒幕とするスウェーデン軍(プロテスタント)がオーストリア(カトリック)まで攻め込んで、信教も何も関係ない泥沼の消耗戦に陥ってます。特に厄介だったのは傭兵たちで、戦闘のないときはあちこちの町や村で強盗三昧や殺人・暴行のし放題という極悪ぶりを発揮。こういう連中に30年も徘徊されたわけですから、「ドイツの地が200年も後退した」とか「ドイツの人口が3分の1に減った」というのもあながち誇張ではないでしょう。

さて、当時のザルツブルクはひとつの国だったのですが、その領主はパリス・ロドローン(1586-1653)という司教伯でした。領主が国王や公爵じゃないのは、この地がローマ教皇のご領地だったからです。また、ローマ教皇との関係からザルツブルクは30年戦争のときカトリック側に協力せざるを得ず、のちに新教軍から攻撃を受ける可能性そのものはけっこう大きかったといえます。

パリス・ロドローンがザルツブルクの領主に任命されたのは、30年戦争勃発直後の1619年10月13日でした。就任早々難しい国際情勢に直面ですね。で、このとき彼はカトリック連合に兵力と資金をちゃんと提供し、自国の義務になかなかの忠実ぶりを示していました。例えば1620年にはさっそく1,000人の歩兵をスイス方面のエンガディンに対プロテスタント戦で派遣、その後も別なところで数百人規模の兵力を出し続けています。さらに資金面では、戦争中の1637年から戦後の1652年にかけて累計164万グルデンを提供。おまけに、いざ敵が攻めてきたときに備えてホーエン・ザルツブルク城の増強を図るとともに、都市の城壁や保塁の強化にも着手してました。

しかし、こうした戦時体制作りの中で人々の生活が無事に済むわけはありませんでした。パリス・ロドローンは資金調達のため、これでもかこれでもかと住民を税金攻めに遭わせます。おまけに物価もこっぴどく上昇。例えば30年戦争の始まった1618年には、1桶のとうもろこしが57グルデン、麦は42グルデン(1桶にしては高そうですが、よほど大きな桶だったんでしょうか?)だったのが、その4年後の1622年にはとうもろこしが96グルデン、麦は94グルデンでほぼ倍増です。まさに住民は踏んだり蹴ったりですね。

ところが、こうした重税と物価高の中で住民が一揆や暴動を起こした形跡はありあません。これまた、ちょっと不思議じゃありませんか?

ではそろそろ種明かしに入ってゆきましょう。実をいうとパリス・ロドローンは住民を苦しめるどころか、しっかり救うことを考えていたのです。

まず、彼はカトリック軍に対する兵力(たぶん傭兵でしょう)と資金の提供の義務を遂行する裏で、なんとカトリック同盟には加盟していませんでした。プロテスタント軍の力は侮り難かったので、あからさまにその敵にはなりたくなかったのです。つまりザルツブルクが耐え続けた負担は、カトリック軍から睨まれることなくプロテスタント軍の敵にならないようにする、戦争回避の代償という性格のものでした。

また、パリス・ロドローンはザルツブルクの守りを固めるとき、城壁の範囲を従来よりも広くしました。これも税金が重くなった一因ですね。しかし、そのおかげで1人でも多くの住民をその中の収容できるようになったという点は見逃せません。もし彼が自分の身のみを守るつもりだったら、もう少し増税を手加減してホーエン・ザルツブルク城だけを鉄壁にすればよかったのですから。

余談ですが、パリス・ロドローンは戦争のときによく流行するペストなどの伝染病にも用心し、ザルツブルクにあった2つの湿地の干拓も行っています。これまた増税の元にはなりましたが、ペストが流行ったあとの負担を考えれば悪い選択ではありませんでした。

そして、こうしたパリス・ロドローンのホンネが最もよく表れたのは、カトリック側の将軍ヴァレンシュタイン(元は巨大な傭兵隊のオーナー)がサルツブルクを冬営地にしたいといってきたときのことでした。このときばかりはこの怖い将軍に敢然と「ノー」の返事をしているのです。そして、このおかげで敵軍のスウェーデン王グスタフ・アドルフはザルツブルクへの進軍をしなかったんですよ。

以上を見るとおわかりのように、パリス・ロドローンが最も強く目指していたのは、ザルツブルクを戦場にさせず、さらに敵も味方も関係なく傭兵を町の中に入れないということでした。戦争そのものもさることながら、それに参加している傭兵たちの悪行三昧が町や村を荒らすということを早くから察知していたのでしょう。また、住民が重い税金に耐え抜いたのも、身包み剥がれて命まで失うよりは、重税でビンボーになるほうがまだマシということを理解していたからだと思います。

こうしたパリス・ロドローンの叡智と勇気の結果、ザルツブルクはあの不毛極まりない30年戦争を奇蹟の無傷で乗り越えることができました。そして戦争の前から続いていた大聖堂の建設(こちらのほうは経費節減で当初の計画よりやや質素になりました)が完工し、城壁整備のついでにミラベル庭園も整備され、おまけに大学もできるといったことで、むしろザルツブルクはこの時代に発展さえ遂げたのです。おかげでパリス・ロドローンはのちの世に、故郷の父(der Vater des Vaterlands)」と讃えられるようになりました。

パリス・ロドローンのもうひとつ偉かったところは、30年戦争で手柄を立てようなんていう功名心にとりつかれず、目先では多少損してでも自国の完全防衛に専念した無欲さです。これが先々代の野心的な司教伯ヴォルフ・ディートリヒ(この人はあとでクビになり、牢に入ってます)だったら結果は逆になっていたでしょう。

でも、ここで忘れてならないのは、あの重税に耐え抜いた住民たちですね。いくらパリス・ロドローンが優秀でも、税金を払ってもらえなければザルツブルクは戦場になって廃墟への運命をたどっていたかも知れないのですから。パリス・ロドローンが「故郷の父」なら、町の発展に底力を発揮した住民たちには「故郷の母」という褒めことばなんかいかがでしょう?ザルツブルクはよいお父さんとお母さんに恵まれて幸せな町でしたね。

◆参考資料:
ザルツブルク 祝祭都市の光と影 − 聖堂と宮殿:人口庭園
池内紀著、音楽の友社
Salzburg Chronik - Wehrhafte Friedensinsel(1619-1653)
Pert Peternell/Heinz Dopsch/Robert Hoffman著、Verlag das Bergland-Buch Salzburg
Salzburg Coins - Paris Graf Lodron
http://www.salzburgcoins.at/Landesfuersten/html/L09_lodron.htm]
Everything2 - Paris Lodron
http://www.everything2.com/index.pl?node_id=1673440
aeiou - Paris lodron
http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.l/l808333.htm



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