オーストリア散策エピソード > No.105
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聖ネポムクを祭り立ててウッシッシ
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聖ネポムクの像
聖ネポムク


オーストリア、バイエルン、ボヘミア、シュレジア、フランケン、スイス、ルクセンブルクなどの橋には、ときどき左手に十字架をもった聖人の像(頭に5つの星がついてることも)があります。この人は聖ネポムクといって、橋の守護聖人なんだそうですよ。

ネポムクとは「(ボヘミアの)ポムクとういう町の出身の」という意味の名で、本名は「ヨハネス・ヴェルフリーン・フォン・ポムク」(ただしこれはドイツ名ですが)といいました。言い伝えによるとこの人は14世紀後半に実在したプラハの司教総代理で、暴君だったボヘミア王ヴェンツェルのお妃の聴罪師をしていました。で、ある日ヴェンツェルは王妃が何の罪を告解しているのか知りたくなり、これをネポムクに「教えろ!」と迫ります。しかし聴罪師がそんなことをペラペラと話すわけにはいきません。そこでネポムクはどんな拷問や威嚇を受けても、口を閉ざしたまま秘密を守り抜きました。おかげで頭にきたヴェンツェル王は1393年3月20日、ネポムクを橋の上からモルダウ川に投げ込んで溺死させてしまいます。

それらかちょうど300年経った1693年、プラハのカレル橋に聖ネポムクの像が立てられました。橋から投げ落とされたことにちなんでネポムクを橋の守護聖人にしたわけなんですけど、なんだかかなり強引なこじつけですね。その後この像は旧ハプスブルク領を中心にあちこちの橋で作られ、いつしか「橋のご加護なら聖ネポムクにお任せ!」ということが定着してゆきました。

だけどこれ、ちょっと不可解な点がありますよ。橋の守護聖人といえば「聖クリストフォルス」がすでにいたはずですが、わざわざこれを押しのけてネポムクが祭り上げられるというのは不自然じゃありませんか?

実をいうとこれにはそれなりにワケがありました。なんと、元々は橋のことなんてどうでもよかったんです。プラハのカレル橋にネポムクの像を立てるようにと為政者を焚きつけたのは、イエズス会の坊さんたちでした。で、そこに隠されていたのは、「聴罪ビジネスの拡大キャンペーン」という企み。坊さんたちはなんと、「拷問にもめげず秘密を守るネポムクは信頼のブランド!聴罪師のご用命は是非イエズス会に!」という抜け目ないCMに打ってでたのです。つまり、橋の守護は単なるカモフラージュで、本当の狙いは「贖罪師は口が固い」というイメージを売り込むことにありました。

その後イエズス会はマクドナルドのチェーン店みたいにネポムク像の出店を増やし、さらに「聖ネポムクの舌が無傷で発見されたぞ!」とデッチあげて派手なお祭り(1719年、プラハ)をするといった涙ぐましい努力も決行。その甲斐あって、ウィーン、グラーツ、インスブルックの宮廷人をはじめとする多くのカネになる顧客を獲得しました。ちなみに、ネポムクがイエズス会によって強引に聖人の列に加えられたのは、カレル橋に像ができてから36年もあとの1729年だったそうですよ。

ところで、ネポムクの像に関する謎はもうひとつあります。それは、オーストリアにもドナウの支流のエンス川に沈められた聖フロリアン(4世紀初期)がいるのに、なぜこの人は橋の守護聖人にならなかったかということです。下のサイトをご覧いただくとわかりますが、聖フロリアンはなんと消防士の守護聖人になってますよ。いくら水の多いところに縁があるといっても、これは少しムチャクチャな気がします。

● Die Langerfelder Feuerwachen (ドイツの小さな消防署のHP、2005年9月リンク切れ)
St. Florian Church (聖フロリアンの火消しの絵のあるHP)
● St Forian - Patron of Firefighters (聖フロリアン御護りの販売サイト、2005年9月リンク切れ)

もちろんこの奇妙な出来事にもちゃんと理由らしきものはありました。そして、その背後にいる黒幕は、ハプスブルク家だったのです。

ボヘミア王国はドイツ系住民とチェコ系住民を擁し、20世紀初期までハプスブルク家の傘下にあったのですが、そこに住むチェコ系の人々はどうにかしてもっと独立性を手に入れようと、ときどき反乱を起こしていました。その中でも特にハプスブルク家にとって厄介だったのは、ヤン・フス(1369-1415)という、火あぶりになったボヘミア版宗教改革者の人気です。また、1618年〜1648年に中欧の土地を荒れ放題にした30年戦争も、ヤン・フスの思想の流れを汲むボヘミアのプロテスタントによる反乱が発端でした。そこでハプスブルク家は、ヤン・フスの人気を同じボヘミア生まれのヨハネス・ネポムク(ヨハネスはチェコ名ではヤンといいます)の人気にすり替えてしまおうという悪知恵を働かせました。つまり、ボヘミアの人々の気を引くにはボヘミア出身の聖人が必要で、ドナウの支流に沈んだ聖フロリアンを橋の聖人にするわけにはいかなかったのです。

もっとも、のちの歴史を見ると、ハプスブルク家の悪企みがホントに狙い通りにいったのかどうかはわかりません。確かに聖ネポムクの人気はしっかり上がって、この聖人に関するお祭りも繁盛することはしたようです。しかし、だからといってボヘミアのチェコ系住民が角を引っ込めた形跡は見当たりません。ただ、ボヘミア生まれのネポムクがオーストリアでも愛される存在になったのはどこか微笑ましいことですね。今のところチェコの人々の中にはかつてのオーストリアに対するわだかまりもまだ残っているようですが、遠い将来にはこのネポムク像が両国の心の橋渡しの役目を果たすときが来ないとも限りません。そうなったらネポムクは単なる「川の橋の聖人」よりもっと偉大な「心の橋の聖人」に昇進ですね。できたら日本と中国と韓国の橋にもネポムクの像を立てて、欧州と東アジアのどっちが先に「心の橋の聖人」をつくれるか競争でもしてみたいものです。

◆参考資料:
民衆バロックと郷土 - 橋の聖者
L. クレッツェバッハー著、 河野眞訳、 名古屋大学出版会
Der steirische Mandlkalender - St. Nepomuk, St. Florian
Sepp Walter著、 Lehkam-Alpina Gesellschaft GmbH, Graz
Wikipedia - 30年戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
Heilige Johann von Nepomuk
http://www.sjn.cz/de/johann.htm


◆画像元:
heimatmuseum Laab (ラープ郷土博物館)
http://www.liesing.at/laab/



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