オーストリア散策エピソード > No.103
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優しい力持ちだった聖クリストフォルス
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聖クリストフォルス
聖クリストフォルス


上の絵はスイスのバーゼル美術館にある「聖クリストフォルス」(ヴィッツ作、1435年頃)です。なんか仲がよさそうで微笑ましい光景ですね。クリストフォルスはオーストリアでも船乗りや子供を守る聖人として愛されているほか、手にもった杖にちなんで庭師の守護聖人にもされています。また、かつては橋の守護聖人も勤めていたそうですが、これはのちに聖ネポムクに譲りました。

ここでちょっとクリストフォルスの伝説をご紹介しておきましょう。この人はオリエントのどこかにいたたいそう力の強い巨人で、「世界で最も強い人に仕えたい」という夢をもっていました。それで手っ取り早くリキア(今のトルコの南西部に隣接するあたり)の王様の家来になります。しかし王様が悪魔を怖がるのを見て、「そっか、悪魔のほうが上なんだね」と思い、あっさりとそっちのほうに転職してゆきました。

ところが、無敵なはずの悪魔も木の十字架を見るとこれを避けて遠回り。そこで素直なクリストフォルスが悪魔に「どうして避けるの?」と聞いたら、正直者の悪魔は「だって、これは怖いイエス・キリストの象徴だもの」と教えてくれました。

これでまた少し賢くなったクリストフォルスはキリストを探し出すことにしました。が、砂漠の世捨て人に訊いたら、「そりゃ祈りと精進で見つけるしかないね」とつれない返事。で、クリストフォルスが「そんな難しいこと、わかんなーい!」と引き下がったら、世捨て人は「それじゃ川に行って、か弱い人たちを岸から岸へ運んでやれば?これなら神様に仕えたことになるよ」と教えてくれました。

知能的にやや難ありとはいえ、人のよいクリストフォルスはさっそくこの助言に従い、川で無料の人足サービスを開始しました。するとある夜、彼が半分眠りかけたときに誰かの声がします。が、振り返っても人の姿はありません。で、3度目に呼び掛けられたときまた振り向いたら、そこには1人の子供が立っていました。クリストフォルスはこんな遅い時間になんで子供が川にいるのかと訝しげに思いましたが、祇園のクラブのママさんのようにお客さんのプライバシーには立ち入らず、黙ってその子供を肩に乗せて魔法の杖をつきながら川を渡りはじめました。

しかし、この子供の重さときたらハンパじゃありません。川を渡り終えたあとクリストフォルスは驚いて、「まるで世界を担いでいるかのようだったよ」とその子にいいました。すると子供はこう答えました。「汝の担ぎしは、世界よりもさらに大きなイエス・キリストなり」と。こうして、世界で最も強い者に仕えたいというクリストフォルスの夢は叶えられました。ついでながら、クリストフォルスという名の意味は、「キリストを運びし者」なんだそうですよ。

ところで、クリストフォルスがこの伝説からずーっとずーっとあとのオーストリアにいたなら、仕える相手はもう1回だけ変わっていたでしょうね。なんと、イエス・キリストをも恐れない人の絵が描かれていますから。それは、聖母マリア様です。

ペストの流行やオスマントルコ軍のウィーン来襲のとき、人々はこれを「神の怒りだ!」として、たいそう怖がりました。そのときのことをモチーフにオーストリアで描かれた絵に、「神の怒りの矢から民衆を守る聖母マリア」というのがあります。ケルンテン州のゲルラーモスという町にある下の絵がその一例。マリア様は自分のマントで勇敢に人々を庇っていますね。これこそホントに史上最強の人でしょう。

神の怒りの矢から人々を守るマリア様
神の怒りの矢から人々を守るマリア様

考えてみれば、国王も悪魔もキリストも自分に逆らう者を許さない「腕力の強さ」という点ではどこか共通しています。これに対してマリア様は、言うことを聞かない人やダメな奴でも優しく守ってあげるという、かなり高級な強さをもった人ですね。そしてオーストリアの人々は昔からそのことを敏感に感じていたようです。上の絵で皮肉にも神様が悪役になっているのは、その何よりの証拠でしょう。また、国のあちこちに数多くあるマリア様や守護聖人たちの名を冠した町や教会の存在も、畏れより慈しみのほうを求めた人々の心の現われだと思います。

そういえば私の育ての姉は常々、「人が怒りを感じるのは傷ついたからですよ」と言ってました。その意味でいうと、怒りの感情や行動を表に出す人というのは、いかに知識や腕力があろうとも、やっぱり弱い人ということになりますね。となると、あれだけの力持ちだったのに自分こそが世界最強と思うこともなくにこやかに川で人足まがいのことをしていたクリストフォルスは、たぶん神様より強い人といって差し支えないかも知れません。だって、怒らないから。

また最近は、「テロとの戦い」がどうのこうのというニュースをよく見かけますが、これって心の弱い人同士が武器だけすごいのを持ってるように見えて、やればやるほど泥沼という気がします。もうここまできたらお互いに引っ込みもつかないでしょうけど(負けを認めるにもそれなりの強さが必用ですから)、せめて次の喧嘩を企むときには、事前にマリア様や優しい聖人の像の前で一呼吸入れといたほうがいいでしょう。ナチスでさえ「神よ英国を罰し給え!」とは言っても「マリア様、敵を蹴散らしてね!」とは言ってませんでしたから、少しは頭を冷やすいい機会になるかも知れません。

もうひとつオマケ。普段の私たちの生活でも、仕事などで相手と厳しい交渉の一戦を交えざるを得ない場面がありますね。で、私は新入社員の頃会社の先輩から、「交渉で勝つときには、必ず相手に逃げ道を残してあげること」と教えられました。いくら論理が正しくても、相手を追い詰めてしまえば結果はロクでもないというわけです。確かにそれはごもっとも。ここでもやっぱり腕づくの強さより、マリア様やクリストフォルスのような強さのほうが威力をもっているようですね。

◆参考資料:
民衆バロックと郷土 -
神の怒りの矢
L.クレッシェンバッハー著、 河野眞訳、名古屋大学出版会
エクラン 世界の美術(9) ドイツ・オーストリア、(スイス) - バーゼル美術館
主婦の友社
Knaurs Kulturfuehrer in farbe - Christophberg
Droemer Knaurs, Muenchen
Die Legende von Christophorus
URLは不明
Oeknemische Heiligenlexikon - Christphorus
http://kath-kirche-gehrden.de/html/body_hl__christophorus.html



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