オーストリア散策エピソード > No.101
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青年チェコ党の大コンサート
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打楽器ばかりの青年チェコ党楽団
打楽器ばかりの青年チェコ党楽団

上の絵は1900年に行われた青年チェコ党のコンサートです。みんな熱心にシンバルを叩いたりハーモニカを吹いたりしていますね。楽譜も指揮者もなくて、しかも打楽器がやたらに多いところはヘンですが。それと、絵のやや左上のほうには耳をふさいでいる人物もいますよ。もしかして、相当ヘタクソな演奏だったんでしょうか?

実をいうとこのコンサートの背景には、ちょっと大きないきさつがありました。その間接的な主因は、なんといっても1867年に成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国でしょう。当時のオーストリア帝国の中にはハンガリー王国、ボヘミア王国、クロアチア王国などといった諸民族の名ばかりの国がいっぱい含まれていたのですが、その中でマジャール人たちのハンガリーだけが独立性の獲得に成功したのを見て、ボヘミアのチェコ人たちはあまり心穏やかじゃありませんでした。なんでオーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国はダメなのかと思って。

一方、皇帝フランツ・ヨーゼフ自身は「二重帝国が三重帝国になってもまあいいか」と思い、1871年9月には「プラハで戴冠式をするぞ」と言ってたそうです。しかし、これはマジャール人とドイツ系の人々の猛反対に遭って頓挫しちゃいました。

ちなみに、19世紀後半のボヘミア王国では、中産階級と労働階級の大半をチェコ人が占め、官僚などの地位はもっぱらドイツ系の人々が占めていました。だから、チェコ人の独立性が高くなるのをドイツ系の人々がイヤがるのは、いいか悪いかは別として、自然の成り行きではありました。でも、マジャール人がチェコ人の独立性獲得に反発するところは、やっぱり余計なお世話という気がします。

さて、こうしたことからボヘミア王国の中ではドイツ系住民とチェコ系住民の対立が強まり、なんだかちょっとまずい状況になってきました。そこで、皇帝はこれを打開すべく、1879年にボヘミア出身の貴族であるターフェを帝国の首相に就けました。で、そのターフェ首相は1880年に、チェコ語とドイツ語を対等に扱う言語令を発布。おかげでチェコ人たちは教育でも行政でも従来よりマシな立場となりました。しかし、今度はドイツ系住民のほうがカチンときてしまいました。

これでドイツ系住民とチェコ系住民の対立はむしろ深まってゆき、ターフェ首相は1893年に辞職。そのあと1895年に首相となったバデーニは1897年4月にターフェを上回る言語令を出して、「ボヘミアとモラヴィアの官吏は全員チェコ語とドイツ語の両方ともしっかりできなきゃダメよ!」としました。が、ドイツ語を話せるチェコ人は多いけどチェコ語の話せるドイツ人はあまりいないので、この言語令は事実上官吏の世界からドイツ人を締め出しにするのも同然。おかげでドイツ系の人々の反発はいちだんと高まり、チェコ人との対立は前よりいっそうひどいことになりました。

これを見た皇帝は「ありゃりゃ!」と思って1897年11月にバデーニ首相を罷免。さらに1899年にはあの必殺の言語令も撤回され、今度はチェコ人たちがまた大騒ぎに。まさに、あちらを立てればこちらが立たずで、あれこれするほど対立はさらに深まる一方です。これじゃ最初から何もしなかったほうがマシと言えるくらいですね。

このバデーニ首相時代にできた言語令撤回のお礼として翌年(1900年)に催されたのが、上の絵にあるコンサートです。よって、演奏会場は当然のことながら劇場などではなく、帝国議会の議事堂でした。これ以上チェコ人に不利な議決なんかをさせてはなるものかと意地になった青年チェコ党の面々が、ドイツ系議員たちに無料で大音響をお見舞いしていたのです。これならハープやフルートのように大人しい楽器がなくて、ひたすら打楽器ばかりがあるというのも頷けますね。

それにしても、罵声や殴り合いで物事を妨害するのではなく、愉快な楽器で賑やかに議会を麻痺させるというのは、どこかのどかで笑えます。それと、もし私があの時代にいたなら、青年チェコ党のみなさんには日本の雅楽をお勧めしたかったところです。これ、西洋人の嫌がる不協和音がいっぱい使われてますから、優雅にマトモな曲を演奏しただけでも、議会を台無しにする効果は抜群ですよ。

◆参考文献
ハンガリー・チェコスロバキア現代史 - 18世紀末から第一次世界大戦まで
矢田俊隆著、山川出版
ハプスブルク家 -ボヘミアの動向・・・言語令
江村洋著、講談社現代新書


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