オーストリアという地名が初めて世に現れたのは、今から約1,000年前のことです。この地は長いこと「東方辺境」を意味する「オストマルク(Ostmark)」と呼ばれていたのですが、これが996年に少し出世して、「東にあるマトモな国」を意味する「オスタリーヒ(Ostarrichi)」になりました。ただし、最初のオスタリーヒは今のオーストリアの1/10もないほど小さな国でした。
ところで、オスタリーヒという地名が生まれたばかりの頃、この地を治めていたのはバーベンベルク家の人々でした。ハプスブルク家の前に270年もの長い間ですから、平安王朝と同じくらい古くて、江戸幕府と同じくらい長持ちしたことになります。
このバーベンベルク家の辺境伯たちには、それぞれの渾名がありました。それは下の表のとおりです。これを見ると、最初は人望のありそうな人が現れて、次にずいぶん強そうな渾名が並んでますね。これでお家興隆というところです。100年目にはある程度統治の基盤が固まったせいか、伊達男や自由闊達さを示すあだ名が増えてきました。そして後半になると、道徳面に優れているとか信心深いとか言われるおとなしい王が続いたようです。しかし、最後の一人だけは
「喧嘩好き」なんていう有難くない渾名を頂戴しました。喧嘩はよくありません。そして、この喧嘩好きのフルードリヒ2世をもって、バーベンベルク家の血縁はあえなく絶えてしまいました。最後の辺境伯フリードリヒ名前の意味は「平和」ですが、歴史とは皮肉なものですね。 |