オーストリア散策シシー > 年代記No.05
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嫁姑戦争の前夜 - 1853年〜1854年



皇帝フランツ・ヨーゼフとシシーの婚約は姑のゾフィーにとって実に予定外であり、しかも心外なものでした。

予定外というのは、嫁さんがシシーの姉のヘレーナ(愛称はネネ)にならなかったことです。お家大事ということだけを考えれば、母親のルードヴィカ大公妃に似て忍耐強いネネのほうがずっと無難でした。事実、ネネはのちに嫁いだトゥルン・ウント・タクシス家で、夫の早逝をモノともせず立派に同家を切り盛りしています。これに対してシシーのほうは父親のマックス・ヨーゼフ公から自由気ままで伸び伸びとしたところをたくさん受け継ぎ、どう考えても皇室には不向きでした。    

一方、心外というのは、母親に従順だったフランツ・ヨーゼフが初めてゾフィーの意向より自分の意思を優先させたことです。ゾフィーは自分の夫が無能かつ無冠だったことから息子に望みをかけていました。で、ウィーン革命(1848年)のドサクサに紛れてメッテルニヒを追放し、フランツ・ヨーゼフを皇帝の地位につけることに成功。こうして、「さあ、あたしの天下はこれからザマス、オーッホホホ!」となったところでシシーにフランツ・ヨーゼフを奪われてしまったのですから、心は穏やかじゃありません。    

とはいえ、決まってしまったものは仕方なく、こうなったらゾフィーはいかにシシーを飼い馴らすかを考えることに。しかし、元々皇后になるなんて意識も覚悟もすることのなかったシシーがスンナリとゾフィーに従うわけはなく、当然のことながら嫁姑戦争も避けられそうにはありませんでした。    

このシシーとゾフィーのバトルについて、のちの歴史家は概してシシーのほうに好意的ですね。でも、もしすべてをシシーの思うとおりにしていたなら、ただでさえ屋台骨がぐらついていた皇室はメチャクチャになっていたかも知れないでしょう。かといって、ゾフィーの天下でも皇室がよくなるとは到底思えません。要するに、客観的にみるならどっちもどっちでしょう。    

ただし、シシー自身が姑になったとき息子ルドルフの嫁さんであるシュテファニーにつらく当たったという話しは聞いたことがありません。普通の人なら若いときは姑に反抗し、年を取ったら嫁の愚痴というパターンになりがちですから、そうならなかったシシーは少し偉いともいえます。そんなわけで、私は基本的にシシーの味方という立場をとってゆきましょう。    

さて、姑とのバトルに入る前に、シシーにはもっと別な厄介事が待っていました。それは、お妃教育と儀礼の数々です。儀式のときの歩き方から歩幅、座り方、跪き方といったたくさんの作法をはじめとするお妃教育は、それまで自由に育ってきたシシーにとって窮屈そのものだったし、しきたりの中にはナンセンスなものも山ほど。とてもたまったものではありませんでした。また、婚礼のためにウィーンに向かう途中の町や村で人々の歓声に応えて人為的な愛想を振りまくのも、シシーにしてみれば「人前で晒し者になるなんてイヤ!」といったところ。宮廷に入ったら年がら年中別な儀礼があるかと思うと、これまたやってられないという感じでした。そしてシシーは、「あの方が皇帝でさえなければ・・・」とため息をつきます。    

余談ですけど、シシーが嫁入りするとき持参したパンツの数は60枚だったそうです。で、これが多いかどうかは別にどうでもいいのですが、自分のパンツの数を公証人のおじさんだかお兄さんたちにいちいち読み上げられるというのは、やっぱりお妃教育の洗脳をそれなりに受けた女性でなければ「ゲロゲロ!」といったところでしょう。皇后になるとプライバシーもロクにないのです。そして、こうしたことに対する鬱積も嫁姑戦争のマグマを蓄えるひとつの原因だったのでしょうね。    

こういう籠の鳥の状況の中で1854年4月24日、シシーはウィーンのアウグスチーナ教会で執り行われる作法としきたりがてんこ盛りの御成婚の儀に出るため、夏の宮殿のテレジウムを馬車で出発。が、ホーフブルク宮殿で馬車から出るときシシーの王冠がドア枠にちょっと引っかかり、これを見たゾフィーは「まったく威厳がない!」と憤りを露わにしたのだとか。早くもシシーを相手に嫁姑戦争をやる気満々ですね。一方のシシーは王冠どころではなく、馬車を降りてホーフブルク宮殿からアウグスチーナ教会まで行列行進をするという「大晒し者の儀式」が新たなストレスに。こうして積もり積もる不条理のマグマが臨界点に達したときは、いったい誰に向けて噴火させたらいいのでしょう?やっぱりそれは、権威と儀礼が大好きな姑のゾフィーでしょう!    

そして婚礼の翌日、朝食の席でゾフィーはシシーたちにずけずけとしたことばで軽くカウンターパンチ。するとその翌々日、今度はシシーがゾフィーのいる席の朝食を拒み自室でコーヒーを飲もうとします。が、ゾフィーは家族一緒の朝食という決まりを盾にそれを却下、シシーはしぶしぶと食卓に出てきました。で、そのとき夫のフランツ・ヨーゼフは予定外なことに国事で執務室へと行ってしまいます。残されたシシーは途方に暮れました。しかも不運なことに皇帝業というのはふだんから大変な激務で、今の日本のソフトウェア技術者よりも長時間労働でした。したがって、まだ心は子供だったシシーが頼ろうとしても、皇帝はそこにいないことが多かったのです。この点でいうと、自分で自分の道を切り開けるネネのほうが皇室には向いており、そのネネを皇帝の妻にと望んだゾフィーの考えはあながち間違いとはいえませんでした。のちの人々に鬼姑扱いされているゾフィーには、気の毒なところもあります。ただし、人の性格や資質というものがモノのように加工自在でないと心得ていなかったところは、ゾフィーの大きな欠点です。本当に人生の先輩なら、シシーの悪いところや至らぬところを矯正するよりも、よいところを伸ばすように仕向けるべきだったでしょう。    

以上のように、シシーもゾフィーもそれぞれ嫁・姑として力不足なところがだいぶありました。どんなに身分が高くても、所詮は人間ですから。しかし、シシーは美貌、ゾフィーは宮廷内の権力で味方を引き寄せる力をしこたまもっていましたから、その闘いは時としてボヘミアやハンガリーの運命まで左右する凄いものとなってゆきます。次回はいよいよその壮絶な嫁・姑戦争の開戦のお話しをしましょうね。





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